学習曼陀羅「鎌倉と琉球」
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 鎌倉と琉球というか、大和(ヤマト)と琉球の関係なるものが、同化かなのか交流なのか、ここではいくつかの文化がどのようにして混じったり、反発したりするのか、そんな歴史をつらつらと書いてみたいと思っています。そもそもこうした視点を考えようと思ったきっかけは、帝国主義的植民地政策なるものを考えていたときです。欧米的植民地化政策の一つに同化政策なるものがあります。ここでいう同化とは、植民地において、宗主国がより合理的に様々な利益を得るために、植民地域に住んでいる人たちの社会観や価値観を宗主国のそれと調和的にさせるための政策です。宗主国のそれと調和的にすると言っても、植民地の人々の意識まで宗主国なみに近代化させてしまい、結果として宗主国に対して権利を主張する勢力などが発生しない程度に懐柔する政策です。でも、今のところ、世界史においてうまくいった試しはありません。

 ということで、いわゆる植民地政策としての同化云々ということは文章を書き出すきっかけの発想の1つであったとさせていただいて、本文では複数の地域や国の関係における関係性が見る位置によって、同化になったり交流となったりするという両義的な意味をまさに振り子のようにゆらゆらと書き連ねていこうと思っています。

 では、はじめにヤマトの話しからスタートしていきたいと思います。

 【聖徳太子】

 いきなり時代は遡ります。聖徳太子の名を聞いたことがない人は、あまりいないと思います。がしかし、彼に対しては、不明な点も多く、本当に実在したのかどうかも危ぶむ声もあります。特に古代の場合、こうした名前が一つの位を意味していて、複数の人が替わり代わりに名乗っていたなんてことも考えられます。ということで疑い出したらきりがないので、教科書レベルの前提で話を進めましょう。聖徳太子が行ったと言われている仕事として有名なのは、「冠位十二階の制を制定」(603年)、「憲法十七条を制定」(604年)などです。こうしたいわゆる律令制の基礎となるべく制度を決めていったのは、国内に向けては、やはり中央集権化と天皇家(当時は大王)の国家君主としての正当性の確立であったと思われます。そして国外向けとしては、当時からもう既に確立をみていた華夷秩序(中国を中心とした世界)の中で、国家として認めてもらうために国際基準の行政制度を確立するためであったと思われます。

特に憲法十七条に関しては、中央集権的な社会構造を明確に規定をしています。その基盤となっているのは、やはり儒教であると思われます。しかし、儒教の教えだけでは、中国からのコピー版であるのが明らかであるので、そこに彼が精通していたと言われる仏教の教えがうまくちりばめられています。中国の制度の模倣ではあるのですが、聖徳太子流の仏教アレンジをほどこし、セミオーダーのような繕いになっているわけなのです。和の思想などを取り入れ、一見、民のためのような制度になっていますが、実際は、権力者と大衆との関係を明確に分けた中央集権的制度の基盤となる決まりとなっています。

 さらに時の権力者たちは、一層に強固な中央集権化を押し進めるべく、8世紀に入ると国史(国の歴史書)の作成にも着手します。712年「古事記完成」、720年「日本書紀完成」と続けて中央集権化を不動のものとする国史関係の書物が完成します。内容は、みなさんもご存じの通り、日本の各地にあった伝承神話、中国、朝鮮における神話などを取り込み、日本各地の豪族たちと国造りの神たちを習合したものでした。ある意味で成功をした日本における古代の中央集権化でした。しかし、そもそも借り物であった張り子の制度は、ほころびるもそれなりでした。シャーマニズムと中央集権制を習合させた統制は、大衆が知恵をつけてくると同時に崩壊をしだします。中でも各地方を統治していた豪族たちの統制力にかげりが見えてきます。今一度、大きくなった国家を統制し直すためには、確固たる政策方針である新国家イデオロギーを必要としたのです。

 【問題−1】

  日本において、政府が初めて貨幣を作ったのはいつ頃だったのでしょうか?下記からその時代を選んでみてください。

ア)原始時代 イ)古代(大和朝廷時代) ウ)中世(鎌倉時代)エ)近世(江戸時代) 
オ)近代(明治時代) カ)その他

  選んだ理由の考えてみてください。

 【問題−2】

  では、その作られた貨幣は何で造られていたでしょうか?

 ア)石 イ)鉄 ウ)銅 エ)銀 オ)紙 カ)その他

  選んだ理由を考えてみてください。
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bQ

 前回は、聖徳太子などが、大和政権の中央集権化の一歩として、国家制度を創設し、その後、大王の権威を正当化するために日本の各地にあった伝承や中国・朝鮮にあった神話などを流用して、日本の国史を作っていったと話ました。そのあと約1世紀は、そうした中央集権体制のもと、国家を維持することができましたが、為政者たちは、政治が安定すると維持することのたいへんさを直ぐに忘れてしまい、私利私欲のために権力を行使するようになっていきます。確かに、そんな憂いを予期していたであろう聖徳太子は、仏教の中にあった護国思想などを重んじ、少しでも長く安定した政権が維持できるよう都に寺などを設置し防衛のための布石を打っていたふしはあります。がしかし、いかんせん彼のように国家を維持するためには、そうした国家理念がきちんとしていなくては、民がついてこないということ理解していた貴族たちは少なかったようです。結果として、地方の民たちに義務だけ課した朝廷の中央集権制度は、綻びが目立つようになってきます。

 【空海】

 もともと国が興した教育機関の大学に所属をしていた空海さんは、そこで儒教・仏教・道教などを学び、国家官僚としてのキャリヤを積むコースにいました。しかし、学習の結果、仏教の優位性を確信した彼は、本場の仏教を学ぶべく唐へと渡るのです。官僚時代の空海さんは、国家のためにと学校を創ったり、灌漑事業をしたりと国家官僚としての立場から公共事業などを指揮していました。彼の意識の根底にあった国家護持意識というものはこの頃から作られていたのかもしれません。国家エリートであった空海さんは、入唐後、才能を遺憾なく発揮します。まさに当地においても天才の名をほしいままにします。当初、日本の政府もそんな彼の才能を伝え聞いて感心はしていましたが、逆に反朝廷になったとしても協力者にはならないと踏んでいたふしはあります。むしろ脅威に感じ、恐れていたような印象を受けます。そして、入唐後2年、中国において密教の奥義をきわめてきた空海さんは帰国をして816年に真言宗を開きます。当初は、無関心を装っていた政府側も先に書きましたように、各地方からの中央集権性の崩壊が始まり、背に腹は代えられない状況になりつつあったのと、彼が披露した密教仕込みの加持祈祷プレゼンテーションのうまさなどによって、彼が興した真言宗に政府は急速に接近をしていきます。

 もう既に、綻んできた中央集権性を立て直すために朝廷は、中央集権化の柱であった地方民族宗教から立ち上げた日本神道と大陸仕込みの護国思想をふんだんに含んだ仏教とを習合させようと企んでいました。その習合の仕方を論理的に説明をしたのが空海さんだったのです。さらに彼が率いる真言宗派は、そうした理論だけでなく大衆を引きつけるためのパフォーマンスである加持祈祷の技まで持ち合わせていたのです。

 さて、相当の実力を擁していた空海その人のすごさと、真言密教の奥義とは何であったのか。これを話だすとたいへんなことになりますので、ここではほんのエッセンスだけを紹介し、興味のある人は、たくさん出ている関連の書籍等を読んでください。空海さんのすごいところは、西洋から遠く離れたアジアのそれも当時のアジアの中心からはずれた辺境の地出身のいち僧侶が、ある意味独学で、儒教・仏教・道教などの各思想の根底に流れている思索の論理をまるで、西洋のそれも19世紀に登場したヘーゲルのごとく、弁証法的な論理展開によって説明したことです。こうした論理方法を確立したことによって、空海率いる真言密教宗派は、全ての仏教、いや仏教のみならず神道なども含めた当時日本にあった、もしかしたら中国の宗派も含めた全ての宗教的イデオロギーの祖源となり得たのです。真言密教の奥義とは、そうしたアジアにおける全ての神の中の神、絶対神の神として、大日如来(光り輝く神)を据え、宗派を越えた体系を完成させたことでした。

 そうした当時の知識と情報の範囲の中ではありましたが、絶対的な論理イデオロギーであった真言密教に国家イデオロギーの再編をもくろんでいた朝廷が見逃すはずはありません。すり寄ってきた国家権力に対して、空海さんは実際的な神道と仏教の習合の方法を実証します。それが、八幡信仰への接近でした。

 【問題−3】

 聖徳太子は、5世紀の倭の五王による遣使より途絶えていた中国への遣使の派遣を再開しますが、600年の第一次遣隋使では、隋の文帝に帰され、607年には、あの小野妹子を擁して第二次遣隋使を派遣します。第二次では、結果として交流はうまくいくのですが、小野妹子が持参した国書は、当時の隋の皇帝煬帝をカンカンに怒らせてしまったといいます。なぜ、怒らせてしまったのでしょうか?その国書の一部分を書きますので、その理由を考えてみてください。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
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 たしか前回は、聖徳太子などが行った中央集権政策の綻びが目立ちだした9世紀初頭、今一度強力な中央集権国家をつくるために古代国家における国家イデオロギーだった神道に仏教を習合させ、新たな国家イデオロギーを作らんとして、時の天才であった中国帰りの元国家官僚、空海氏を朝廷は登用した。空海氏は、大衆をも引きつける祈祷術や他の宗派の僧侶たちを論破せしめる高度な理論を持って、一気に国家イデオロギー政策のブレーンとして駆け上がった。そんな空海さんが、神道と仏教とを結びつけるための言説として使ったのが、八幡信仰であったのだ。という話をしたと思います。そこで今回は、空海氏が仏教との習合のために目をつけた八幡信仰のことについて少し話をしてみたいと思います。

 【八幡信仰】

 八幡信仰の発祥の地とされているのは、九州大分の宇佐近辺であるとされています。宇佐には、日本全国の八幡様の大本である宇佐八幡宮があります。宇佐八幡の由来の詳細は定かではありませんが、朝鮮から伝わってきたのか、もともとあったのか、ともかく土着の原始地方宗教の一つが大和朝廷の中央集権政策にともない格上げされ、国家宗教の一翼を担うものになったものと思われます。宇佐八幡に祀ってある神は、いくつかの諸説がありますが、その中心となる八幡神、その後の大菩薩、そして、玉依姫、後年になって加えられた神功皇后の三神としています。八幡神は、この地が天より八つの光さししめし、神が降り立った場所とされ、光輝く日輪が発生したる場所であることから、後に真言密教いうところの大日如来と習合し八幡大菩薩へと発展していくのです。また、この八幡信仰には、その由来の通り、太陽の光たる日輪のなせる伝承等も伝わっています。その一つが、玉依姫とその姉たる豊玉姫の伝承です。海神の娘たる豊玉姫は、その姉妹の力を発揮し、身内の男どもが海などを渡り遠方へと旅などするとき、姉妹がその守護神となり守るという、柳田国男先生言われるところのまさに姉妹の力(ヲナリ神信仰)の中心たる姫たちなのです。したがい、大和朝廷の時代ころより朝廷の要人をはじめ、僧侶たちなど入唐の際には、必ずこの宇佐八幡宮に詣でて旅の無事を祈願したそうです。こうした菩薩信仰やヲナリ神信仰などがもととなり、戦いのとき家を出た武士たちの武運を守護する神として、八幡神社は長く武士たちの守り神ともなっていくのでした。

 初期の段階での神道と仏教との習合理論として、空海さんは、こうした八幡神が持つ日輪との関係を重視し、真言密教でいうところの最大の神である大日如来の前身たる菩薩神は、八幡神と重なるものとしその習合の理論を広めていくことになるのです。このようにして、日本の各地で行き詰まっていた日本神道を仏教と融合し、新たな国家宗教として、その理論体系を完成させていった真言密教は、仏教各派に通じた理論性の高さにより他宗教をも吸収駆逐しながら朝廷の中央集権制の新しい国家思想として君臨していくこととなるのです。この宇佐八幡より発した八幡信仰との習合の形は、真言宗派の寺院境内に八幡宮を建設するなどの実際の実践例などを各地方に伝えつつ、後の石清水八幡宮、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮へと時代を越えつながっていくわけなのです。

 【問題−4】

皆さんは、よく自分の生まれの干支は、羊だとか、兎だとかと言ったりしますが、この各動物の意味は、本来どのような意味だったのでしょうか。と聞いておきながら、実は、本来、動物そのものを意味しているわけではありませんでした。例えば、羊は、未で、「味」を意味し、果実が熟し滋味(うま味)を生ずることを意味します。それでは、「寅」はどういう意味で、季節、時間であればいつごろをさす言葉なのでしょうか?寅は別段、虎をさすわけではなかったのです。
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 前回は、八幡信仰と真言密教の習合の様について話をしました。どちらにしても日本の各地で統治能力に行き詰まりを感じていた神道は、これを機会にこぞって仏教との習合を果たしていきます。まあ、仏教との習合の話がこれ以前にまったく無かったかというとそうでもありません。日本の各地で耳にすることができる神宮寺などは、そのはしりであったわけです。しかし実際的にこの流れが日本に定着するのは、今までの話の通り、空海氏が、体系的かつ理論的にこの習合の形態を説明したことによって一般化され、広く知られていったことに違いはありません。

 さて、ここで八幡信仰の話が出たついでに、ついでというかある意味、忘れてはいけない重要な視点なのでありますが、ヲナリ神信仰ということについても少し話をしておきましょう。

 【ヲナリ神信仰】

 このヲナリという言葉は、沖縄をはじめとする南方諸島の歴史の中に出てきます。ヲナリとは、姉妹のことをさし、兄弟のことをエケリと言います。沖縄諸島をはじめとする南方諸島において、ヲナリはセジ(霊力)を持ち、エケリが長い航海や旅に出るときや危険な仕事などに行く場合には、常にヲナリがエケリのために祈り、その無事を祈ったとされています。その際、ヲナリはエケリにお守りとして自分の身につけている物や切った髪を渡したとも言われています。こうしたヲナリ神の信仰が先に書きました八幡信仰と深く関係をしていると説いたのが、かの柳田国男先生です。その詳しいことは氏の「妹の力」を読んでいただくとして、ここでは概要をお話しましょう。今一度、八幡信仰の話を思い出してみてください。九州大分の地にあり、八幡信仰発祥の場所であると言われている宇佐八幡宮では、その神として八幡大菩薩・玉依姫・神功皇后の三神を祀ってあると言いました。そもそも八幡宮が海に関係が深かったことは前号でも書きました。なぜ、八幡宮が海と関係をしていたかと言えば、それは八幡の神の一人に玉依姫がいたからにほかありません。玉依姫なる人物が実際にいたかどうかという点については定かではありません。一説によれば、玉依という古代巫女の一官職名だったのではないかとも言われています。証拠に今も日本の各地に玉依神社なるものが存在をすることなどがあげられています。がしかし、本論では一人の女性として話をさせていただきます。この玉依姫の姉が豊玉姫になるわけです。

まずは、この豊玉姫について少々説明をしますと、彼女は、海神の娘であると言われています。海神の娘である豊玉姫は、海神の宮にやってきた山幸彦(あの山彦)と結婚して子どもをもうけます。その子どもが、のちに九州地方をおさめたと言われている鵜葺草葺不合神(ウガヤフキアエズノカミ)です。海宮で懐妊をした豊玉姫は、海原で出産はできないと妹の玉依姫を従えて九州の地に上陸して(その時、亀に乗ってきたらしい)、出産を済ませます。出産を済ませた豊玉姫は、理由はよくわかりませんが(一説には出産を山彦に見られたためと言われている)、海宮へと帰ってしまいます。そこで、玉依姫の登場です。

残された子どもを姉、豊玉姫より依頼をされた玉依姫が育てます。まあ、育てた結果、玉依姫はこの子どもと結婚をし、神武天皇を生むことになるのです。こうした一連の話をどのように言ったらよいかわからないのですが、ちょっとまとめると、豊玉姫・玉依姫なる姉妹の力によって、日本の祖である神武天皇が生まれたということになり、その姉妹は海神の娘たちであり、海・水に対する高い霊力を持っていたということなのです。

このことからもわかるように、八幡信仰の一部を担っている海や水に対する信仰や男たちへの守護神信仰などの起源は、こうした海神の娘たちであった豊玉姫・玉依姫に拘わっていたことだったのです。

そこで話を最初に戻しますとこうした考えが沖縄方面に残るヲナリ神信仰と結びついているのではないかと柳田先生は言うのです。だとするとさらなる思いが続々と頭をもたげます。「いつ、どのような経路でこのヲナリ神信仰のような考え方が南方諸島に伝わったのかそれとも逆の流れだったのか、逆であるとすればその起源は中国か朝鮮か」などなどと。さらに付け加えるなら、この宇佐八幡を発祥とする八幡信仰の流れは、石清水八幡を経由して鎌倉の鶴ヶ丘八幡へとつながっていきます。また、宇佐八幡、石清水八幡が神紋として使う水を意味する左三つ巴の紋章を琉球王府が王家の紋章として長く使っているという事実などがあります。ここらへんの話は追々やらせていただくとして、ともかく、ヤマトに古くから伝わっている八幡信仰と南方諸島に伝わるヲナリ神信仰との間には、何らかのつながりがあるということはわかっていただけたかとは思います。そして次回は、時代はさらに進み、鎌倉時代ということとなります。

【問題−5】

   紀元前5世紀、北インドで生まれたゴータマ・シッダールタは29歳で出家をし、厳しい修行をした後、35歳で悟りを開き、仏陀になったと言われています。仏教ではその後、礼拝の対象として多くの仏像が作られるようになります。その種類は、如来・菩薩・明・天・その他となります。そこで、問題です。では、本来の唯一の仏像であった悟りを開いた仏陀を表しているのは、前述した5種類の仏像の中のどれでしょうか。

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時代は上り、11・12世紀となってきます。いわゆる日本の中世と言われる時代へと入ってきます。この中世の初期において、特徴的なことは、なんと言っても武士たちの台頭ということになると思います。どうしてそうなったのかは後で説明するとして、9世紀から10世紀にかけて、摂関政治の全盛期であるということからもわかるように、国の政治は、またしても私的性格を強く帯びるようになってきます。天皇との縁戚関係を軸にして、一族の栄華を確保する傾向が強くなっていくのでした。こうした中央における政治の乱れと並行して、頭角を現してきたのは、貴族のたちの護衛をしていた兵士たちや地方の豪族・有力農民たちでありました。貴族たちの護衛をしていた一族たちは、もともと職業軍人でありまして、日々の訓練の延長として徐々に兵力を充実させたのです。また、地方においては、定着した農耕社会を守りかつ勢力を拡大するため、豪族や有力農民たちが一族を中心として、団結し武装化していきます。こうした2つの新勢力が結びつき、新興勢力である武士、そして武士たちの集合体である武士団を形成していったのでした。

 そうした武士団の中で、その軍事力を背景にして、朝廷へとにじりよっていったのが、源氏と平氏であったのです。逆に言いますと、11世紀頃になると彼らの持つ軍事力なしでは、政権を維持することができなくなりつつあったということです。本来、地方を管理していた国司などのシステムが崩れだし、代わりに武士団などの棟梁などを中心とした在地領主を中心としたシステムが機能しだしていました。こうした現実や、貴族たちは、自分たちの生活を維持するうえに必要であった貢納の確保という意味においても、武士たちと何らかの提携をすることを余儀なくされていったのでした。

 このような朝廷貴族たちの弱点をうまく突いて、初めに勢力を拡大したのが平家でした。皆さんもよくご存じのように、平清盛代においては、後白河法皇を幽閉し平家の専制的政権を確立したのでした。中央におけるこうした動きに連動し、地方においても平氏はその影響力を拡大せんとしました。この動きに対して、自領土など私的利権を持つ地方の有力者たちは反発をします。初期の段階においては、平政権に対して反旗を振ったのは、何も源氏だけではありませんでした。地方の既存利権集団がこぞって反平家の狼煙を上げたのでした。そうした勢力の中でも強大であったのが、東国を地盤としていた源頼朝の勢力であったのです。

 【鎌倉幕府と栄西臨済宗(前編)】

 ここで今少し、鎌倉幕府登場前夜の源氏の系譜を整理しておきましょう。

[源義親(よしちか)?〜1108年]
 義家の子。九州で背き、のち出雲で再び反乱、平正盛により追われ、殺される。源氏は一時衰退した。

[源為義(ためよし)1096〜1156年]
 義親の子。保元の乱で崇徳上皇側に加わり、敗れて殺される。

[源為朝(ためとも)1139〜1170年?]
 為義の子。九州に武威を示し、鎮西八郎と呼ばれる。保元の乱に父と共に崇徳上皇方に参加をしたが、敗れて伊豆大島に流罪となる。

[源義朝(よしとも)1123〜1160年]
 為義の子。保元の乱で後白河天皇方に属し、夜襲で勝利をおさめる。のちに平清盛と争い平治の乱を起こす。敗れて東国に逃れる途中、尾張で暗殺された。頼朝の父。

[源義平(よしひら)1141〜1160年]
 義朝の長男。伯父の義賢を攻め殺し(大蔵合戦)、武名高く悪源太と呼ばれた。平治の乱で奮戦し、乱後捕らえられ殺された。

[源頼朝(よりとも)1147〜1199年]
 義朝の子。平治の乱後、伊豆蛭島に流された。1180年、以仁王の令旨に応じて挙兵する。84年に弟、範頼・義経を遣して源義仲を倒し、翌年平氏を滅ぼした。1185年、弟義経との不和に乗じて、後白河上皇に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による全国支配の土台をつくった。1190年、上京して右近衛大将に任じられたが、まもなく辞して、鎌倉に帰った。1192年、征夷大将軍(1192〜99年)となり鎌倉幕府を開いた。鎌倉殿と呼ばれ御家人たちからの信望は厚かった。

[源義仲(よしなか)1154〜1184年]
 頼朝の従兄弟。木曽に住んで木曽義仲とも言われた。1180年に挙兵をして平教盛の追討軍と対峙しつつ、北陸地方を平定する。1183年、砺波山の戦いに大勝して入京する。1184年には、征夷大将軍に任じられたが、源範頼・源義経軍に攻められ、山城国宇治川で敗れ、近江国粟津で敗死した。

[源範頼(のりより)?]
 頼朝の弟。源平争乱に義経と共に兄頼朝の配下として活躍する。平家滅亡後は九州経営に努めた。のちに頼朝に認められず、伊豆国に配流後、暗殺される。

[源義経(よしつね)1159〜1189年]
 頼朝の弟。幼名牛若丸。奥州に下り、藤原秀衡の援助を得て成長する。頼朝挙兵に参じ、源義仲・平家討伐で功を挙げた。のちに頼朝と不和となり、奥州に潜伏中、秀衡の子泰衡に攻められて自殺した。

 ということで、鎌倉幕府成立前夜の源氏の系譜を書きならべてみました。史実だけの見方ではありますが、まさに血で血を洗うような骨肉相食む熾烈な指導権争いだったのです。貴族政権の時もそうでしたが、人の道にはずれたことをして政権を奪取した者たちの多くは、その魂の救いを神に求めた傾向があります。朝廷が仏教に接近したと同じく鎌倉幕府も仏教へと接近していくこととなります。次回は、もう少し鎌倉幕府の実際を解説したあと、幕府と仏教、特に禅宗との関係、八幡信仰との関係などを書きたいと思います。

 【問題−6】

  鎌倉幕府が成立するころ日本には、地方行政単位の国が66個ぐらいあったとされています。武士が主導権を握った初めての政権である鎌倉幕府でしたが、幕府の財源となる幕府直轄の知行国は最大時何国ぐらいあったでしょうか。

ア)1国 イ)9国 ウ)40国 エ)53国 オ)66国
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 【鎌倉幕府と栄西臨済宗(中編)】

 まさに下克上の世界です。親戚縁者が争った結果成立した鎌倉幕府ではありますが、今一度、鎌倉幕府成立の流れを紹介しておきましょう。前編でも話をしたように平氏の勢力が朝廷を牛耳って自分たちの勢力を集権化しようとした結果、それにより自分たちの利権が脅かされると察した地方の有力者たちが平氏打倒の声をあげたと言いました。1180年に起きた治承・寿永の内乱の段階では、源氏は打倒平氏の声をあげた多くの勢力の中の1つにすぎませんでした。ただ、特に源頼朝の勢力の規模は最大級であったということです。源頼朝は、1159年に起きた平治の乱のとき、平清盛との争い敗れ東国に逃れる途中暗殺された源義朝の子でした。頼朝は、そのとき捕らえられ伊豆蛭島へと流されていました。その頼朝が、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け、妻政子の父北条時政らとともに挙兵したのです。1180年8月の石橋山の戦い(小田原市付近)では、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)に敗北し、一時、安房国へと逃れますが、代々源氏に仕えていた東国の武士たちが続々「いざ鎌倉」へとはせ参じ勢力を盛り返し、同年10月には、その後の拠点となる鎌倉へと入ることとになります。

 一方、平清盛は、頼朝を討伐するために孫の平維盛(これもり)を大将として、大軍を関東に派遣をします。しかし、1180年10月の富士川の戦いで大敗をきしてしまい京都へと逃げ帰ります。水鳥の飛び立つ音を夜襲と間違え敗走したと伝えられている戦いです。富士川の戦いで勝利をした頼朝は平氏軍の後追いはせずに鎌倉に戻り、東国の経営固めに精を出すことになります。

 その間、平氏は平氏で畿内を中心として支配の建て直しをはかります。そうした畿内に留まる平氏に対して攻撃をしかけたのが、頼朝の従弟であった源義仲です。義仲は、頼朝の挙兵より約1ヶ月後の1180年の9月ごろ挙兵したと言われています。木曽より進攻した義仲は、1181年6月には、平氏の命を受けた越後の豪族城(じょう)氏を破り、北陸道へと進出をし、1183年5月、頼朝のときと同じように派遣されてきた平維盛率いる平氏軍を加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠の戦いで迎え撃ち勝利します。その後の加賀国篠原の戦いにも勝利して一気に京へと攻め上ります。倶利伽羅峠の戦いは、牛の角に松明をつけ夜襲をかけたことで有名な戦いです。この動きに畿内の反平氏勢力も呼応し、1183年7月、平氏一門は都から追い落とされることになります。

 せっかく都を征した義仲ではありましたが、どうやらその統治能力に問題があったらしく、後白河法皇らの不評を買ってしまいます。法皇らは義仲勢力の一掃を頼朝に依頼します。依頼を受けた頼朝は、弟の源範頼(のりより)と源義経を大将として東軍の軍勢を派遣します。義仲も応戦をしましたが、見方少なく山城国宇治川の戦いで敗れ、1184年1月、近江国粟津(あわづ)で戦死をします。源氏どうしが争っている間に平氏は福原にもどり、京都回復の機会を伺っていました。後白河法皇は、平氏追討の院宣(いんぜん)を頼朝に与えます。ただちに源氏軍は、平氏の拠点であった播磨一の谷を1184年2月に攻撃します。義経の活躍もあり、一ノ谷の戦いで源氏は完全に勝利をします。敗走した平氏軍を追って義経は、1185年2月には讃岐国屋島にて平氏を急襲し、さらに長門国壇ノ浦まで追いつめます。屋島の戦いは、義経配下の那須与一の扇矢掛け話で有名です。壇ノ浦での義経との海戦に敗れた平氏一門は、同年3月、安徳天皇とともに海中に没したとされています。

 義経の軍事力を評価した後白河法皇ら朝廷は、勢力を増加しつつあった頼朝が力を押さえるための対抗勢力として義経らを使おうとしました。鎌倉に凱旋をしようとした義経に対して、法皇の動きを警戒した頼朝は、義経を京都へと追い返してしまいます。これを見た法皇は、さいわいにと義経とその伯父の行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、直ぐに頼朝討伐に命令を出します。しかし、武士たちは頼朝との仲を重んじ動かず、孤立した義経は奥州平泉の豪族藤原秀衡のもとに落ち延びます。秀衡の死後、頼朝との協調を希望したその子泰衡によって義経は殺害されます。

 しかしながら、頼朝は、1189年、自ら大軍を率いて奥州へ進攻し、藤原氏一族を滅ぼします。結果、頼朝の武士団の棟梁としての地位を脅かす者は誰もいなくなります。この後、1192年の頼朝征夷大将軍任命により、先により整備をしてきた政治機関と政治権力の掌握と合わせ、ここに名実共の鎌倉幕府が成立することになります。

 今月も本題にいく前に紙面がつきました。つづきはまた来月。

【問題−7】

   一大勢力として源頼朝軍があったと書きましたが、当時の合戦にはせ参じた武士の数はどれくらいであったでしょうか。平清盛軍と頼朝のお父さんであった源義朝軍が戦った1156年の「保元の乱」のときの両軍の騎馬数を予想してみてください。


ア)
平清盛軍30騎・源義朝軍20騎

イ)平清盛軍300騎・源義朝軍200騎
ウ)平清盛軍3000騎・源義朝軍2000騎
エ)平清盛軍30000騎・源義朝軍20000騎
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bV

 前回はようやっと鎌倉幕府成立というところまで話をしました。よく考えたら、幕府と宗教の関係を話すのだとすれば、八幡信仰のことも今一度話さなくてはいけないなどとも思いましたが、その起源の話は以前の説明で勘弁してもらい、ここでは、幕府と八幡信仰、幕府と禅宗のことを中心に話を進めていきたいと思います。その後、肝心な鎌倉と琉球との関連について、いくつかの視点で話をしたと思います。まあ、どちらにしてもまだまだ当分話は続くということです。感想やら何やらあったらどうぞ気軽にお寄せください。

 【鎌倉幕府と栄西臨済宗(後編―1)】

 では、鎌倉幕府と宗教ということを中心に話をしていきましょう。鎌倉幕府と宗教という視点で見た場合、大きな2つの流れがあります。1つは八幡信仰です。そして、もう1つは、仏教ということになります。これらの宗教のことについて話をする前に、「幕府はなぜこうした宗教に接近をする必要があったのか」という点について若干説明をしておきます。国家を統治するにあたり、こうした宗教が必要であった理由は、大雑把に分けて3つほどあります。1つは、平安時代の末ごろからの律令制崩壊にあたり、朝廷は中央集権制を維持するために、加持祈祷の力を利用したことは既に説明をしました。この流れは、その公家連中から政権を奪取した幕府が、今度はそうした加持祈祷を主催する側として継続をしなくてはいけないことを意味していました。次に新興勢力の武士連中を束ねていくためには、幕府が神々から神託されていることを誇示していく必要がありました。八幡信仰の武運や仏教の護国思想などがこの範疇に入るかとは思います。最後の3つ目は、特に仏教に関してですが、中国との交易の関係です。中国のことをよく知っている僧侶たちは、幕府の外交顧問として大きな力になるものであったのです。これらの理由を主なものとして、幕府は宗教に接近をしていきます。

 はじめに、幕府と八幡信仰との関係について話をしましょう。そもそもの関係は、幕府と八幡信仰というよりは、源氏と八幡信仰ということになります。いくつかの説がありますので、列記します。@源義家が石清水八幡前で元服したので八幡太郎と称する。これが関わりのはじまりである。A後嵯峨院は、諸皇子に源姓を賜り、八幡宮を氏神としたから。B源頼信が誉田(こんだ)八幡宮に武人としての加護を祈願し、頼信の子である源頼義ならびにその子である源義家が前九年の役(1051〜62年)において活躍したるとき、守護神として八幡神を祀ったことからはじまった。

有力な説としては、やはりBの説ということになるでしょうか。証拠として、時の相模守であった源頼義によって、1040年代ごろ神奈川県の寒川神社に八幡大菩薩が導入され、後1063年には、石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜に勧請しました。そして、1180年には源頼朝により由比ヶ浜の元八幡宮から現在の位置に鎌倉鶴ヶ丘八幡宮として移設されたという流れがあります。

 八幡神と源氏というよりか武士との関係は、菅原道真(845〜903年)のことを話さなくてはいけなくなります。当時、ずば抜けた学力を有し、宇多天皇に抜擢された道真は、トントン拍子に出世をして右大臣にまで登りつめます。しかし、左大臣藤原時平以下の攻撃に合い、道真は失脚し失意のままに没します。この義がよほど悔しかったとみえて怨霊となった道真は、その霊が慰められるまで、都に災いを及ぼし続けます。この一件以降、都の民衆は、何か災いがあると誰かの怨霊のせいであるとします。天変地異などの災いが生じる度に民衆主催の加持祈祷会(御霊会:ごりょうえ)が催されるようになります。その際の加持祈祷を担ったのが、密教系の僧侶たちであったのです。

異常に盛り上がった民間による加持祈祷会をみた朝廷の連中は、自分たちの失政の原因を怨念に転嫁するということを思いたちます。律令制の綻びが目立ち出す9世紀中ごろともなると、社会に不満を持つ民衆たちのエネルギーを吸収し鎮護国家の考えを広めるために、むしろ積極的に加持祈祷会を朝廷は主催するようになります。そして、その頃になると朝廷の権威を再構築するために理論武装化された密教理論を駆使すれば、怨霊たちも朝廷によって護国の魂に生まれ変わることができるとまで言うようになります。10世紀ごろになりますと、こうした朝廷派の策略は敵味方なく定着するようになります。真言密教の理論により習合された神道と仏教からなる朝廷の新しい国家イデオロギーの前では、彼らにとって最高の神である八幡大菩薩=大日如来の力によって、過去怨霊であった道真すら、今では善霊となり、八幡大菩薩様の部下として振る舞うようになるのです。このことは、朝廷を守護したる神、神の神託を受けたる朝廷、その神は、まさに絶対唯一の神(八幡大菩薩=大日如来)であること証明したことになったわけです。

 さらに、この八幡大菩薩の大本があの宇佐八幡宮であったわけです。神仏習合したる発祥の地が宇佐であったことは何も偶然ではありません。元々土着の地方信仰の1つであった八幡神を拝んでいたのは、九州を治めていた宇佐周辺の豪族でした。律令制の弱体化とともにこうした旧勢力が息を吹き返す可能性があったわけです。反朝廷の勢力になる可能性がある所であったこの地域を朝廷のイデオロギー下に従属させるのは必然であったわけです。

 ようやっと武士連中と八幡信仰の関係に近づいてきました。そもそも八幡大菩薩が武運の神であったことは以前話をしました。それと同時に八幡大菩薩を最高神とした朝廷の政策は、実は両刃の剣でもあったのです。それはどういうことかと言いますと、今後、日本の政権を担う者は、八幡大菩薩より直接神託を賜ればよいことになるのです。どんな形であれ、今後、日本の統治者として君臨するには朝廷経由の委託ではなく、八幡神からの直接委託を受けることが重要であるようになったわけです。したがって、ある意味で反朝廷派の勢力であった武士たちは、もし自分たちが国家の政権を担うのであれば、八幡大菩薩からの直接の加護と神託を得ること、得る道を確保することが重要であると理解したのでした。その形を制度化しようとした最初の武士が源頼朝であったのです。ゆえに源氏は、宇佐八幡宮、石清水八幡宮、そしてお膝元の鶴ヶ丘八幡宮を全国の武士を束ねるイデオロギー装置としてコントロールしていこうと試みたわけなのです。

 そうした意味では、頼朝がその後仏教にも近づいていくのは、神仏の習合理論の実践として重要であった加持祈祷の力、今までは朝廷が牛耳っていたその理論と実際を統治者として手中に納める必要があったのです。そこで、当時、密教を修行し加持祈祷の霊験の誉れが高く、数度の入栄により中国海外事情にも詳しかった栄西に接近していくことになるのです。また、紙面がつきました。仏教との関係については次回にします。

【問題−8】

   再び銭の問題です。鎌倉幕府が宋からの輸入品で目をつけていたのは、銅銭でした。当時の北宋で作られた北宋銭は、律令制が崩壊した日本において年貢の納入銭として使用されるようになっていきます。日本のみならずアジアの様々なところで使われた北宋銭、1078〜85年ごろ、北宋ではその銅銭が年間何枚ぐらい鋳造されていたでしょうか。

ア)600,000枚  イ)6,000,000枚  ウ)60,000,000枚

エ)600,000,000枚 オ)6,000,000,000枚
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bW

鎌倉幕府と仏教の関係を話すところまでたどりつきました。鎌倉仏教と一言で言っても、幕府と敵対したものも含め、幕府と関係する仏教はたくさんあります。その分類は、見方によっていくつかの分け方があります。例えば、時代的に古い新しい、すなわち旧仏教と新仏教などという分け方をするのであれば、旧仏教とは、天台・真言・法相・華厳・律・三論で、新仏教は、浄土宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗ということになります。また、これらの宗派が基となっている考えということで分けるとすれば、南都・真言密教・北嶺・禅・念仏・日蓮などという分け方になり、さらに各宗派の教義の性格ということで分ければ、自力を主張する禅、不二である真言宗・天台宗、他力を主張する浄土真宗・真宗・日蓮宗・念仏宗などという分け方になります。いろいろな分け方はともかく、鎌倉仏教の各宗派を解説しているとこれまた膨大な量となってしまいますので、興味を持たれた方は、これまたたくさん出版されている鎌倉仏教に関係する本を読んでもらいたいと思います。読まれた方はぜひレポートをお寄せください。

 そこで、ここでは鎌倉幕府が幕府の公教として認めた禅宗臨済宗を中心に話をすすめていきたいと思います。

 【鎌倉幕府と栄西臨済宗(後編―2)】

 以前にも話をしましたように、本来仏教は、鎮護国家・護国思想として国家官僚たちの魂の救済として機能していました。幕府も当然、朝廷にかわる新しい行政府として機能し出すわけですから、為政者としての彼らの魂を救済する仏教を欲したのでした。ただ、鎌倉時代以前と違うところは、ある意味で発達をしてきた民衆社会においても価値観が多様となり、民衆たちも魂の救済を要望するようになってきたということです。つまり、官僚たちの魂の救済だけではなく、民衆たちの魂の救済をも仏教が担うようになってくるのです。後者の仏教が鎌倉時代に発生をした新仏教たちであったのです。

 そうした新仏教が興る中で、より国家的な性格を帯びていたのが、栄西率いる禅宗の臨済宗派でした。ではまず、はじめに栄西という人について、少し話しをしましょう。

 栄西は、1141年、備中国の吉備津神社(岡山市)の神官家賀陽(かや)氏の子として生まれます。神官と言っても当時は、地方武士と言った方がよいかとは思います。11歳で吉備郡の安養寺に入り、その後、比叡山にのぼり、14歳のときに延暦寺にて受戒を受け、19歳のとき伯耆大山寺(ほうきだいせんじ)にて天台宗の奥義を学びます。そして、28歳のときの1168年と47歳のときの1187年の2度にわたり禅宗を学ぶために当時の南宋へと渡ります。帰国後、九州を中心として自教の布教に励み、1199年ごろ鎌倉へと入ったとされています。

 鎌倉幕府の公教として採用されるまでの栄西の動きは、いろいろと興味深いものがあります。例えば、当時はもう既に、遣唐使のような公費によっての中国への派遣制度は無くなっていました。ゆえに、もし中国に行くのであれば、自費で旅費を工面しなくてはいけませんでした。その額たるや相当のもので、いっかいの僧侶が工面できる額ではなかったそうです。それを栄西は2度も実行しているわけです。彼はどうやってそんな多額の資金を調達したのでしょうか。未だによく解っていません。

 栄西の経歴からみてもわかるように彼が唱えた臨済宗は、天台宗、密教、禅宗という3つの宗派の教えをミックスアレンジして成り立っています。その各宗派の比重は、時代によって変移をしています。このゆらぎが栄西の野心と関係しているのではないかと思われますが、最終的には、彼は、禅宗を基盤としてその上に天台宗・密教があるという立場をとるようになります。

 密教等については、以前に説明をしましたので、ここでは禅宗について少し説明をしておきます。禅とは、もともと仏教の悟りを開くための修行法の一つでした。その方法は、座禅を組むということです。座禅を組んで瞑想をして悟りの境地へと到達することを目指したのです。禅宗の開祖は、あの有名な達磨ですが、彼から数えること6代目あたる慧能(えのう)(638〜713年)によってその教義がほぼ確立されたとされています。一言で禅宗と言っても中国の禅宗は、五家七宗と言って五つの分派と二つ臨済宗派からなります。禅宗の教義は、「二入四行」と言って、性善説に基づく考え方で、「本来善人であるはずの人間は、生まれた後発生をする様々な煩悩によって真実を見られないようにされている。したがって、『怨みを持たない』『感情に左右されない』『執着心を持たない』『無心になる』という四つの行をすることによって、煩悩を払いのけ真実を見抜ける力をつける」といったものでした。こうした禅宗が中国で最盛期となったのは、南宋(1127〜1279年)の時代でした。この時代の禅宗のことを南禅と言いますが、なぜ、この時代に禅宗が最盛期となったのかということについては、中国の歴史をみる必要があります。興味のある方は調べてみてください。

 この時代の中国において、もう1つ忘れてはいけない思想がありました。それは、儒学から発達した朱子学の完成です。儒学の教えを体系化し1つの学問として朱子(1130〜1200年)によってまとめられた朱子学は、官僚主義であった南宋において重く用いられ、政策イデオロギーの1つとして当時の中国政治に深く関わっていました。

 そんな時代の中国宋へ栄西は学びに行ったわけです。ここで注意が必要なことは、栄西が日本で始めた禅宗臨済宗は、確かに座禅を組む手法や自力であるという視点は、中国のそれといっしょでしたが、全体像はかなり違うものであったということです。つまり、栄西は、自分が今まで学んできた天台宗や密教や禅宗、さらに朱子学などの教えを融合し独自の宗教観を作ろうとしていたのです。なぜ彼はそんなことをしたのでしょうか。そのヒントは、彼が帰国して直ぐに延暦寺から布教の禁止を言い渡されたとき、弁明のために書いた「興禅護国論」の内容や、当時の中国においては禅宗と朱子学との関係が協調的ではなかったことなどからいろいろな推測が立ちます。

 結論的なことを先回りして言うと、おそらく栄西は、自分の宗派を国家宗派として認定させたいと目論んでいたのではないでしょうか。そのためには宗教として、いくつかの要素を持っている必要がありました。@加持祈祷、A護国思想、B政策能力、C中国本家認定、D外交手腕などです。これらの要素を全て満たすためには、天台宗・密教・禅宗・朱子学等の教えを自分の宗派の中でうまく融合させる必要があったのだと思われます。

 こうして自分の宗派の体系的な形を整えていった栄西が次に熟考したことは、国内にある2つの勢力のどちらと提携をするのかということでした。それは、本来、国の主権者として君臨をしてきた朝廷派と組むのか、それとも新興勢力ではありますが今後国家の主導権を握りそうな鎌倉幕府を率いる源頼朝と組むのかの選択でした。

 臨済宗と鎌倉幕府との関係については、また次回にします。

 【問題−9】

   鎌倉幕府が、宋より輸入をした品物の中で、重要視していたのが銅銭の宋銭であったことは、もう既に話しをしました。輸入された宋銭は、東国を中心にして出回り、関東地域の貨幣経済化を推進したと言われています。確かに銭としても使われた宋銭でしたが、他にも重要な使われ方がありました。次のうちのどれだったでしょうか。予想してみてください。

ア)分銅  イ)屋根の銅板  ウ)仏像  エ)鎧の部品  オ)その他
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bX

 何か知恵の泉みたいになってきてしまいましたが、学びの旅はまだまだ続きます。さて、今回は、栄西が率いる臨済宗と源頼朝率いる鎌倉幕府がどのようにして接近していったのかを中心に話をしましょう。

 【鎌倉幕府と栄西臨済宗(後編―3)】

 栄西は自分からは動こうとはしませんでした。ひたすら九州は博多の地において、東国の様子を伺っていました。着々と足場を固める源頼朝、1192年には皆さんもよくご存じの通り、頼朝は征夷大将軍となり名実ともに日本の政治的実権を握る武士連中の親方さまとなります。そういう状況となってきますと今まで朝廷が仕切っていました国家的な行事のいくつかを幕府が仕切って開催をしなくてはいけません。また、鎮護国家たる神からの託宣を受けるための力を持った宗教者集団も東国に作らなければいけません。さらに幕府の財政基盤として、銅銭などの交易品を大国中国より大量に輸入などしなくてはいけません。まさに国家統治の三種の神器ではありませんが、「宗教」「金」「武力と知力」は統治に欠かせない機械であったのです。

こうした統治機械の中身をもう少し具体的にみていきますと「宗教」としての役割は、3つほどありました。1つは前述しましたように武士政権の正当性を神託したる守護神としての神力。そして、怨霊の鎮護や雨乞い儀などを司るみせせるパワーのある加持祈祷たる霊力、そして為政者ならではの統治する者が持つやましい心を癒すための魂の救済力。これらの役割を担ったのが「宗教」であったのです。

次の「財力」と言えば、武士政権の主たる財源と言えば、どこかで聞いたことがあると思いますが幕府より任命された「守護」「地頭」たち、すなわち幕府直属の武士たちによって集められた知行であったのですが、発足当時の幕府の力は実はそんなに強固ではありませんでした。まだまだ至る所に朝廷の息がかかった税徴収制度が残っていたり、幕府の目が届かないところでは地場の有力武士が私欲のための地域を統治していたりしたため、幕府が確実に管理できる国も全体の2割にも満たない状況でした。ゆえに幕府にとっての有力な財源の1つとして、中国からの輸入品は無視のできない品物であったのです。伝える所によると、幕府が管理したる港であった横浜六浦港には、外国の品をはじめとする日本各地の特産物がいろいろと集積されていたと言います。後になり1232年には、鎌倉材木座の遠浅の海には、「和賀江島」という人工の港が作られ多くの品が直接鎌倉の地に集まることとなるのです。そうした品物の中でも先にも書きましたように中国からの唐物はたいへん貴重で幕府の財源としても重宝したようです。唐物の中でも宋からの銅銭であった宋銭は、当時少しずつ貨幣社会へ移行が進みつつあった東国の地においては、当時の東アジアにおける国際貨幣が銅銭であっただけに有力な財源の1つとなり得たのでした。

そして、最後に「武力と知力」と言えば、一見相反するこの2つの要素は、新興勢力の武士たちにとって表裏一体といいますか、政権を維持するための両輪という関係であったのです。簡単な言い方とすれば、今ままで統治をしていた朝廷の連中、すなわち貴族の連中は、「知恵」と「教養」のある人たちであったがゆえに特権階級であったのです。つまり、国を統治する者は、「知恵」と「教養」が備わっていなければいけないわけです。これからの武士は、武力と知力の両方が備わっていることが必要であるということになるわけなのです。逆に言えば、幕府の御家人たる者、「武力」と「知恵」が備わっているのが当たり前というか、御家人になればその両要素が備わるというような、武士としてのステータスでもあったわけです。

 整理をしますと幕府が欲しがっていたのは、そうした「情報」と「理論」と「ノウハウ」を持った人材というか集団であったのです。

 まさに打ってつけの人物がいました。2度も宋に渡り、理論と情報とノウハウを身につけた男が、そう九州の地に。まず初めに彼にオファーを出したのは、その後の経過を見てみると頼朝が妻の政子だったのではないかと思われます。2人の娘であった大姫が病で倒れたとき、治癒のための加持祈祷の依頼をしたのが、そうです栄西その人であったのです。再々の要請にもかかわらず栄西はなかなか動こうとはしませんでした。結局、大姫が亡くなった後の1199年ごろに鎌倉に入ったとされています。鎌倉に入ってからの栄西が主宰したる禅宗臨済宗への幕府よりの支持は絶大のものがありました。

 幕府の要望と全てがマッチしたのかもしれません。その修行のスタイルである禅や、禅問答と言われる「看話禅(かんなぜん)」、さらには本家の中国では、仏教とはライバル関係にあった「朱子学」までも取り入れた教義、そしてもともとミックス系の宗教としていただけに間口の広い柔軟性、後の話にはなりますが、臨済宗建長寺には各宗派の僧侶たちが絶えず出入りしてその懐の広さを誇示していたそうです。あっという間に鎌倉武士たちの心を掴んだ栄西は、1200年には政子より祈願され、鎌倉寿福寺の開基となり、1202年には、文人将軍としても名高い2代目将軍源頼家より京都六波羅の建立した建仁寺の開山として迎えられます。ここに武士と貴族の2つの都にその存在を知らしめることとなるのです。鎌倉幕府の外護たる臨済宗の地位が確立された瞬間でありました。

【問題−10】

   源頼朝が朝廷より任命された征夷大将軍という位は、本来はどんな意味の位だったのでしょうか。

ア)朝廷の中での頭首 イ)日本の国王 ウ)東北征伐の臨時の将軍 エ)武家の棟梁 オ)その他

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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」10

 後編だけでも4回も続き、ちっとも後編になっていませんが、今しばらくおつきあいのほどを。今回からいよいよと言いますか、ようやっとと言いますか、琉球の登場です。琉球と鎌倉との関係については、17世紀以降の俗説に、「源為朝伝説」なるものがありますが、これは沖縄に伝わる伝承がゆえに何の確証もないので、ここでは、史実の中に見える鎌倉と琉球の関係を中心として話をしていきます。

 【鎌倉と琉球(後編―4)】

 鎌倉と琉球の関係を見ると、ヤマト(本土)側の記録では、1403年に琉球船が六浦に漂着したとの記録が残っています。一方、琉球側から見た場合、琉球そのものが1つの王国として成立したのが1429年ということになっていますので、琉球史の中に鎌倉という文字が見えだすのは、1400年以降が中心となります。特に琉球王府とヤマトの政権、当時は室町幕府足利家でありましたが、室町幕府との交流の証である両政府の往復書簡は、1414年より、後の琉球王府王統である尚氏との間で始まっています。このように、実際における鎌倉と琉球との関係においてはタイムラグが存在していますが、両者の関係を見るには、2つの視点から見る必要があります。1つは、鎌倉という記号たる表現が意味することです。そしてもう1つは、仏教、特に鎌倉仏教の1つであった禅宗臨済宗と琉球王府との関係です。時代的ズレを越えた鎌倉と琉球との関係をこの2つの視点から再現することにしましょう。

 鎌倉という言葉が、琉球の記録の中に頻繁に出てくるのは、琉球王府がその正式な国史といいますか、正史として初めて1531年より編纂をしだした「おもろさうし」という国書の中にです。この「おもろさうし」という書は、琉球の各地にあった祭祀儀礼の際に謡われた「オモロ」と言われている神歌を集めてきて編纂をしたもので、一番古いオモロは、1300年頃のものであると言われています。そのオモロ集である「おもろさうし」の中でも、その巻16の「勝連・具志川おもろ」の巻に、多く鎌倉という名称が出てきます。1つ紹介しましょう。本来のオモロは平仮名表記ですが、わかりやすくするために漢字を交えます。当時の琉球における外交文書等は、全て漢書であったのですが、なぜか、この「おもろさうし」や前述した室町幕府との書簡は平仮名表記でした。

 巻16−1144「あかのこがよくもまたもが節」

 一 勝連わ 何(なお)にぎや 譬(たと)ゑる

   大和の 鎌倉に 譬ゑる

 又 肝高わ 何にぎや

 意味は、「勝連は、肝高は(勝連の美称)、あまりに勝れていて何に譬えようか。それこそ、大和の鎌倉に譬えるのだ。」ということで、沖縄島の中南部の太平洋側にある勝連という地が非常に栄えているのが、まるで鎌倉のようであると言っています。この譬えは、この巻において度々出てきます。そこで、この勝連なる地のことについて少し説明をしましょう。1400年代中盤、この勝連なる場所を統治していた按司、すなわち地方行政区の棟梁は阿麻和利(あまわり)なる人物でした。彼はその統治能力非常に高く、特に交易における政策に秀でた存在であったと言われています。その交易の相手は、東シナ海側の諸侯たちが中国との交易が中心であったのに対して、彼は太平洋側の地の利を生かして、ヤマトとの交易を中心としていたようです。その証拠は、いろいろな所に見ることができます。例えば、彼の居城であった勝連城址からは、大和瓦や大和に出回っていた宋銭などの遺物が出土します。また、この勝連周辺の地域には、ヤマトより伝承したと思われる「炭焼き小五郎」なる鉄器にまつわる話や稲作文化伝承の話が残されています。そうした交易による収益など背景としておおいに栄えていた勝連を評し、沖縄学の父と言われる伊波普猷氏は、阿麻和利は、勝連半島を三浦半島と見立て、琉球の鎌倉となることを夢見ていたのではないかと言います。そんな栄華を誇っていた阿麻和利は、琉球王府よりの信頼も厚く、時の国王であった尚泰久王とも縁戚関係を結んでいたにもかかわらず、1458年に王国転覆の企てをしたということで、王府に成敗されてしまいます。以来、「おもろさうし」では、琉球きっての名君と謡われながら、琉球史や民衆の記憶の中では謀反人として記されることとなるのです。彼がなぜ王府によって討たれたのか、そのはっきりとした理由は、未だに解ってはいません。私は、阿麻和利が確保していたヤマトとの交易権というか交易ノウハウが討伐のポイントではなかったかと見てはいますが、推測の域を出ません。

 この史実からもわかるように、少なからず1300年代には、琉球の統治者たちは、鎌倉幕府の存在を知っており、その意味も十分に理解をしていたということは明らかです。こうしたヤマトの情報や文化・歴史がどのようにして琉球まで伝わったのでしょうか。そのキーポイントになるのが「仏教」なのです。その話は次回にしましょう。

【問題−11】

   日本で最初の国史と言われている「古事記」「日本書紀」は、何語で書かれていたでしょうか。理由も考えてみてください。

ア)「古事記」→漢字、「日本書紀」→漢字

イ)「古事記」→平仮名、「日本書紀」→漢字

ウ)「古事記」→漢字、「日本書紀」→平仮名

エ)「古事記」→平仮名、「日本書紀」→平仮名

オ)その他の言語の組み合わせ
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bP1

 さて、ようやっと鎌倉幕府と琉球との接点というところまで話しが進みました。まずは琉球の側の歴史に残る鎌倉幕府の話しを少ししました。そして鎌倉仏教との話しへと進むつもりでしたが、ちょっと寄り道をします。

 【鎌倉と琉球(後編−5)】

 琉球王国と鎌倉仏教との交流が実際に行われたのは、15世紀に入ってからです。それでは、鎌倉幕府時代には、直接的な交流はなかったのかという疑問が浮かび上がってきます。ここに少しおもしろい事実があります。

 鎌倉幕府時代、新しく発生をした武士という階層も徐々に定着していきましたが、農民という階層は、日本の中にある一大勢力であったことに変化はありませんでした。では、その農民という階層は、いわゆる百姓だけをさしたのでしょうか。江戸時代においては、こうした百姓身分というのは、住んでいる場所によって規定をされていました。例えば、医者であれ、鍛冶であれ、農村地帯に住んでいれば皆百姓身分であったのです。鎌倉時代においても同様で、一言で農民と言ってもそこには様々な職種の人々が内包されていました。しかし、逆にこのことから解るように農民たちが、住んでいる所に縛られていたことには変わりがありませんでした。ところが、この鎌倉時代に土地に縛られず自由に国内を行き来することを幕府より許されていた人々がいました。

 鎌倉時代だけではなく、その前であれば朝廷よりお墨付きをもらい国内を自由に行き来することを許されていた集団は、いわゆる職人集団でした。例えば、鋳物師や芸能民たちであったのです。彼らの出自は、もともとは中国や朝鮮より日本に帰化した外国の人たちであったのです。鎌倉幕府は外国より帰化をして特殊な技術を持った人々を「唐人」と呼び日本での交易権を与えていました。

 彼らは段々と、日本に定着をするようになります。その定着の1つの流れとして興味深い例は、比叡山や大山寺などに寺院専属の職人として定着をし、神人として仕えた人たちが居たことです。話しはそれますが、栄西のことを思い出してください。彼の家は、備中国の神官の出でした。当時、渡宋は難儀の時代であったにもかかわらず、栄西は2度も渡宋したと言いました。1つの推測ですが、彼の出自は、こうした唐人(宋人)が関係しているのではないということです。

 こうした唐人たちの職人集団たちは、その出自を明らかにし日本の国内での定着の権利を明確にするためのお墨書き(由緒書)を持っていました。鎌倉幕府ができる前は、その認定者は天皇で、天皇よりそれらの権利を受けたと書いてありました。鎌倉幕府ができるとその認定者が源頼朝に変わります。後年、眉唾ものも多いのですが、地方に住む職人たちのこうしたお墨書きの認定者の分布を調べたところ、九州とか東北に源頼朝によるお墨書きを持つ職人集団が多いということがわかったそうです。

 前述してきた話をまとめると、琉球にある源為朝伝説の伝承の存在、琉球のユタをはじめとする遊女などの芸能集団の存在、琉球神道とヤマト神道との共通性(ヲナリ神信仰と八幡信仰の共通性)、九州に定着をしていた源氏の勢力とその文化の存在、予想以上に発達をしていた国内航路網の存在などを知ることができ、これらのことから考え、1つの推論ではありますが、幕府が言うところの「唐人」の中には琉球人が入っていた可能性はなかったのかなどという想像がふくらみます。もし、「唐人」の中に琉球人が混ざっていたのだとすれば、既に鎌倉時代ごろから、琉球人が芸能家とか職人(神官なども含み)という肩書きで日本の国内を移動していた可能性も考えられ、今のところ日本の歴史の中にははっきりとした形として出てきてはいませんが、琉球と鎌倉との交流が鎌倉時代ごろには、知らぬ間に発生していたのではないかと思ったりしています。

【問題−12】

   当時、職人と呼ばれた人たちではなかった職種の人を下記から1つ選んでください。

ア)博打 イ)巫女 ウ)鍛冶 エ)教師  オ)鋳物師 カ)相撲人 キ)医師 ク)陰陽師 ケ)遊女 コ)学生サ)絵師 シ)商人
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学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bP2

 どうやら13世紀頃より、活発になってきた琉球とヤマトの交流は、どういったものであったのでしょうか、今まで書いてきたようにいわゆる領主であった按司(あじ)レベルの交流やら、もっと小さい地域民間レベルの交流やら、様々なタイプの交流が存在したに違いありません。がしかし、その多くの実際は謎に包まれたままです。

 そうした謎に包まれた交流の中でも、どうにか、うすらぼんやりと記録の断片が残っているのが、後に琉球王国の王府となる王家とヤマトとの交流の記録です。そこで、今回はそこらへんのことを紹介しましょう。

 【鎌倉と琉球(後編−6)】

 琉球王国とヤマトとの公式な交流記録を注目するには、やはり宗教を介した交流というもの注目せざるを得ません。やはり、中でも仏教を介した交流は1つのキーポイントとなると思います。しかし、琉球とヤマトとの関係を仏教という宗教を介して考えるにあたり、いくつかの不思議な点があります。例えば、「ヤマトとの交流と並行してというか、むしろそれより古くから交流をしていた中国という国があったにもかかわらず、琉球は中国仏教ではなく、ヤマト仏教に注目したのはなぜか?」とか、「琉球に古くからあった民族宗教の琉球神道との関係はどうしていたのか?」などといったような新たな疑問も次々と浮かんできます。書きたいことはたくさんありますが、ここでは仏教関係の話しを中心にしていきましょう。

 当時の琉球の歴史を簡単に説明しますと、13世紀前半頃には、琉球の各地に一族郎党を中心とした地方集団が形成されます。13世紀の後半には、その各集団を中心として、狩猟や少々の農耕、そして他地域との交易などをするより大きな地域集団が形成されていきます。14世紀ともなると、そうしたいくつかあった地方集団の中でも有力であった3つの集団(中山・北山・南山)が頭角を現してきます。ちょうどその頃(1372年)より、中国との公式な交流が開始をされます。その交流のことを冊封(さっぷー)と呼びます。中山より始まった冊封も、1380年には南山、1383年には北山と続き、琉球を代表する3つの有力者が中国との公式の交流関係を成立させます。

 その後、1429年には、中山出身の按司である尚巴志(在位1422〜39年)が三山を統一し琉球王国を成したとされています。この尚巴志の流れの王統を第一尚氏王統と呼びます。何代か続いた第一尚氏王統も1469年には倒れ、1470年よりは、第二尚氏王統へと引継がられていきます。

 こうした流れの中で、琉球に初めてヤマト仏教が伝わってきたのは、13世紀の中頃であったと言われていますが、流れ着いた僧が布教のためであったのか、遭難の結果であったのかは定かではありません。その後、14世紀中頃には、薩摩より頼重法印という僧が来琉して、統一前の中山領主であった察度王(在位1350〜95年)の力により那覇波之上に護国寺という寺院を建てたと言われています。ちなみにこの護国寺は、その名からも想像ができるように真言宗派でした。

 その後、琉球王国の統一と中央集権化にともないヤマト仏教との交流は親密さを増していきます。15世紀ともなりますとヤマトから続々と僧侶が来琉してきます。自ら進んで来たのか、王国からの要請で来たのかそこらへんのことはよく分かりませんが、多くのヤマト僧が琉球を訪れています。彼らの宗派は、やはり言わずと知れた禅宗臨済宗派の人たちでした。琉球王国の集権化が完成する直前であった第一尚氏王統の中頃より、王府とヤマト仏教(禅宗臨済宗派)との関係はより密接なものとなります。中でも第一尚氏王統第6代王尚泰久(在位1454〜60年)は、相当に仏教を重んじ、国内に十数カ所の寺院を建立します。その多くの寺院が禅宗臨済宗派であったのは言うまでもありません。こうした琉球王府第一尚氏王統の後半の宗教政策を支えた代表的な人物として、1458年来琉したという京都南禅寺出身の僧侶である芥隠という僧侶がいました。彼は、当時の琉球王五代に仕えました。この間数々の寺院の開基に携わりました。その足跡から推測するに、彼は単なる宗教家ではなく、王国の政治、特に外交政策のブレンとして王府に深く関わっていたことが予想されます。

 その1つの証拠としては、彼は1466年には、当時王府の交易相手であった室町幕府に出向き、自分の出身寺である南禅寺などにも訪れ、様々な情報収集活動をして帰琉しています。その後ヤマトでは応仁の乱が起きるわけですが、彼が帰琉後、今までは室町幕府と直接交易をしていた王府は、その相手を堺や博多の商人と交易をする形へと政策転換をしています。

 また、芥隠は、1492年には、時の第二尚氏王統第2代、琉球王府中央集権化の代表的な王としてその名を後世に残す尚真王(在位1477〜1526年)の命を受け、その後の琉球仏教における中心的寺院となる臨済宗総本山円覚寺を開基しています。首里にあったこの円覚寺には、薩摩や京出身の僧侶たちはもとより、遠くは足利学校などとも交換留学僧の実績があったそうです。

 まあ、こうした琉球史の中に残る仏教との関係は、時代的には室町期からになるので、直接、鎌倉幕府との交流というわけではありませんが、鎌倉幕府認定の国家宗教であり、そのノウハウを室町幕府へと継承した禅宗臨済宗であったことは、やはり意味があったと言わざるをえないと思います。こうして、琉球王府の創設期において、鎌倉幕府より発祥した国家宗教であった禅宗臨済宗が、室町幕府ならびに琉球王府へと継承されていったのです。室町幕府期の南禅寺が、幕府の外交政策の中心府であったことなどを考えると琉球王府において、禅宗臨済宗が担った役割というものがある程度想像できます。しかし、その実証はこれからの研究課題であると言えます。

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 学習曼陀羅「鎌倉と琉球」bP3

 さて、鎌倉と琉球ということで1年間話しをしてきました。確かに、史実の中に出てくる鎌倉と琉球の直接的な関係は、時代的には鎌倉幕府滅亡の後の時代で、政権どうしというつながりからしたら、室町幕府とのつながりの方が強かったかもしれません。しかし、この1年間からの話しからもわかるように2つのことが言えると思います。

 1つは、時代的なギャップはあるというものの、時代を超えた精神的なつながりは、様々なところに見ることができる。特に、宗教をはじめとする政治的な思想の影響は否定することができない。そして、もう1つは、史実としてはまだ出てきていない民間レベルや地域レベルの交流は存在したのではないか。特に、鎌倉時代における琉球の状況が最近分かってきていて、各地域の頭領たちが活発に中国やヤマトと交易をしていたらしいということがはっきりしてきた。

 これらの2つのことは、鎌倉と琉球の関係史分析の視点として、今後重要になってくると思われます。

 次に、今回の話しをすすめていく中で、私なりに考えたことをまとめの意味も込めて羅列しておこうかと思います。まだ頭の中では薄ぼんやりとしたもので、明確にはまとまっていないのですが、まず1つは、集権化と宗教の関係です。いつの時代も、どの場所でも集権化への策動が動きだすと必ずや宗教という道具がその一翼を担います。資本主義と宗教の関係ではありませんが、集権化と宗教の関係については、今後ももう少し整理をしたいと思います。そして今、私の頭の中で渦巻いている最大の問題意識は、時代時代のリーダーが集権化しようと思った動機は何であったのかということです。例えば、ヤマトの場合、朝廷派の連中が自分たちの一族のために地域の利益を集中させようと思ったことは理解できます。おそらくその規模は、後世の私たちがイメージをしているものより相当小さく、ローカル色が強かったものに違いありません。そうした中で、鎌倉幕府のような武士を中心とした政権が一族(実は一族のレベルであったのかもしれない)以上の規模で全国的集権化を目指した動機とは何であったのでしょうか。自分たち一族の利益や幸福を考えたのなら、そんなローマ的(中央集権国家)な国家を目指すのではなくポリス規模の国家でよかったのではないでしょうか。

 一方、琉球の集権化についても同様の疑問が差し挟まれます。琉球王府とは言うものの、その規模は相当に小さく、その集権力も弱かったに違いありません。そもそも、琉球では、同じくらいの勢力の都市国家のようなものが連合体を形成していたのではないでしょうか。ヤマトの各地方勢力のように陸性という境で区切られているわけではなく、海に面している以上は、どんなに小さな都市国家であれ、世界に対して対等に開かれていたと考えるわけにはいかないでしょうか。そういう意味では、琉球の各勢力は、全て海洋性の勢力であったと思うのです。

 それに対して、ヤマトの主たる勢力は、陸性であったのでしょうか。今の私のイメージでは、完全な陸性の国家となったのは、太閤以降のような気がしています。とすれば、実は鎌倉幕府も海に意識が開かれた海洋型国家(平滑的都市国家)であった可能性があります。1つの証拠に、鎌倉幕府周辺の港を中心とした交易海路のネットワークは南海航路も含めて、今までの想像以上に整備をされていたと言われてきています。そういう視点で考えるとヤマトにおける最後の海洋型都市国家であった鎌倉幕府を琉球王府などがその集権化の手本としようとしたのではないかと想像がつきます。その道具が禅宗であり、海神信仰(八幡信仰)であったのではないでしょうか。おそらく琉球の集権化勢力と鎌倉幕府までの集権化勢力までは相性がよかったに違いありません。その後の江戸幕府のような陸性のローマ的(条里的中央集権国家)な国家とは相性がよくなかったに違いありません。

 そんなことを考えてみると、ヤマトにおける中世という時代は、琉球との関係からみても、やはりターニングポイントであったのではないでしょうか。ある一面から言えば、ギリシア的(平滑的都市国家)なものから、ローマ的(条里的中央集権国家)なものへと変わった節目の時代であったと見ることができるのではないでしょうか。

 最後のまとまらないまとめをしますと、海洋型国家の政治的安定化への欲望は、やはり一族郎党の安全と繁栄に基づくものであり、大陸型国家の集権化への欲望は、民族確立への欲望であったのかもしれません。こうした各欲望の変遷は、もう一つの面を現しているような気もしています。それは、民衆の影です。おそらく海洋性国家の場合は、その国家の規模が小さかったことや海洋交易などを中心として生活基盤を確立していたがゆえに、国家的事業を国民総出で役割分担をしてやる必要があり、国家の指導者と民衆は対等的な近い関係にあったと思われます。したがって、海洋型都市国家における政策は民衆の意識と近いものであったのではないでしょうか。それが、国家がより陸性型の国家となるにつれて、民衆の政策からは遠くなり中央を牛耳る官僚などの利益確保中心の政策に変化をしていったような気がします。この視点で考えると、平安時代の末期により大陸的国家となり民衆の意識から遠い所で政治をしていた朝廷派が、都市国家的な意識のもと政治を自分たちの手に取り戻したいと希望した鎌倉幕府の意味がよくわかります。

 ということでちっともまとまりませんでしたが、2つの違う文化の交流を検討することは、いろいろな視点を提供してくれます。なかなかおもしろいので、是非皆さんも試みてください。

  「鎌倉と琉球」についての話しは今回でひとまず終わりにします。新しいシリーズを検討していますので、どうぞお楽しみに。それでは、また。

                               柳下 換
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