Column2006
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 1月

   「学びと存在」

 あけまして、おめでとうございます。
 皆さんにとって、今年もよき年となりますように。

 2005年も、気がつくとさっと終わり、2006年の幕開けとなりました。
 私の場合、2005年は占いによると、12年に1度のよい年であったはずなのですが、これといった出来事もなく坦々と過ぎました。何もなかったのが、よいことであったのでしょうか。だんだんと歳をとってくると、何事もないことが一番なような気になってきます。何か体質が生ぬるくなってきているようです。

 年の初めに、今一度、初心を忘れないためにも、少し「教育」のことを考えてみたいと思います。最近、私が明確に意識をしていることは、「教育」のことを考えるには、「教育」の外に出なくてはいけないということです。

 「教育」の中で、「教育」のことについて考えると、「教育」という前提のうえで、「教育」のことを考えてしまい、「教育」そのものが持つ問題性が見えなくなってしまうからです。ここで、私が「教育」と呼んでいるのは、「国家教育」のことをさしています。「国家教育」といっても、何も学校という所で行われているものだけを、さすわけではありません。「教育」という土台の上で行われているもの全てをさします。「○○教育」と名付けられているものは、民間でやれているものであれ、公でやられているものであれ、国家教育といってかまわないと思います。

 「教育」という土台の上で行われる「国家教育」に対抗するものが、「オルタナティブ教育」と呼ばれるものです。「オルタナティブ教育」とは、「非軍事による『平和』理念を教育理念として、国家などに管理を受けた伝統的な教育を行うのではなく、独自の教育方法やプログラムによって、子どもや家庭のためにデザインされた教育である」と、私は以前、定義をしました。「オルタナティブ教育」は、「国家教育」に対抗する意味では、オルタナティブ、つまり代案的な存在であることは確かです。しかし、「オルタナティブ教育」は、「教育」のオルタナティブではありません。あくまでも、「教育」という土台のうえにある「国家教育」に対立するものであって、その所属は、「国家教育」同様、「教育」に属しています。

 ここでいう「教育」とは、近・現代社会における教育を指しています。近・現代社会における教育とは、近・現代社会に必要とする、もしくは適応できる人間の育成を目的としています。こうした教育観が重視されてきた経緯は、前にも書きました。人間社会の近代化、すなわち機械化、つまり、哲学でいうところの形而上学化と伴って、「教育」が出現し、より高度にシステム化されてきたのです。特に、日本の場合は、「教育」という言葉ならびに概念が、明治以降の近代化とともに、欧米より輸入されたために、もう既に欧米において、「教育」として定着していた教育観が、違和感なく定着しました。したがって、明治以降、日本において「教育」と呼ばれるものは、原則として、社会に適応すると同時に、貢献できる人材の育成をさすことになるのです。ちなみに、明治以前の日本では、学習することを「学問・学文をする」といい、その目的は、自らの資質を引き出す行為とされていました。

 このように、欧米も含め、いわゆる「教育」が人間社会に出現し、定着をしたのは、近代以降であったということが分かってきます。どうやら、「教育」は国家の成立とともに、姿を明確にしたということがいえるようです。では、「教育」が、そもそも立っている場所、もしくは、所属をしている地平とは何なのでしょうか?

 私は、「教育」は、「学び」に属していると考えています。

 ここまでの構造を整理すると、「教育」は「学び」に属している。「教育」の上には、「国家教育」と「オルタナティブ教育」が対抗する要素として並立している。2つの要素を含んでいるといった方がよいかもしれません。このような状態を哲学的にいうと、モナド的な状態であるといってもよいかもしれません。モナド的な関係にある「国家教育」と「オルタナティブ教育」は、「教育」という領野の中では、弁証法的な関係であるといってもよいかもしれません。この関係性は、実は微妙な関係性であるといえます。というのは、この2つの要素を含んでいる「教育」を発展させるためには、その原動力として必要であるからです。ちょっと厳しい言い方になりますが、「教育」という領野を発展拡大させるためには、「国家教育」と「オルタナティブ教育」の拮抗が必要であるということです。どうやら、この次元で、この2つの二項対立的な要素を闘わせるということが、「教育」という領野の発展拡大に力を貸すことになるようです。

 「教育」の中で、「教育」のことを論じたり、考えたりするということは、このことをさしています。もし、「教育」が持つ問題を、根本的に考え、論じたいのだとすれば、「教育」の領野の外から、「教育」の全体像を掴まなくてはいけないのです。こうした見方を、私は、総合としての弁証法的な見方といっています。しかし、人間はゲームの外に出ることはできません。「教育」というゲームの外には、次のゲームである「学び」の領野が広がっているわけです。ゆえに、「教育」は、「学び」に属しているというわけです。

 そこで、人間社会が近代化される前から存在をしていた、むしろ、「教育」の土台である「学び」とは、どのようなものなのでしょうか?

 いまや、本来は、「教育」の土台であり、「教育」を含む存在であった「学び」は、「教育」の肥大化によって、その姿を紛らせてしまっています。ゆえに、「教育」の現場では、往々にして「学び」と「教育」の転倒がおきています。「学び」の中に「教育」があるのであって、「教育」の中に「学び」があるのではありません。その証拠は、「学び」の非隠蔽性をみればよくわかります。例えば、「教育」を行っている代表的な場所である学校というところで、ある先生がいろいろ工夫して、熱心に指導をしたとします。その先生の指導性が優れていればいるほど、学習者である子どもたちは、学習することが楽しくなり、自ら学び出してしまうのです。自ら学びだした学習者にとって、指導者としての先生は必要なくなります。伴走者としての援助者は必要であっても、知識を教え込むための教師は必要ではなくなるのです。つまり、「学び」を覆って隠蔽していた、「教育」が取り除かれた途端、子どもたちは、「学び」だすのです。逆の言い方をすれば、「学び」を「教育」によって覆っておくことはできないのです。人間が生きているかぎりは、いつかは、その奔流である「学び」が析出してくるはずであるということになります。こうした「学び」の本能的な性質のことを、私は「学びの非隠蔽性」と呼んでいます。

 この視点については、相当、昔から繰り返して言ってきました。「人間は、学ぶなといっても学ぶ生き物である」と。したがって、「学び」は、人間が生きていくための本能的なものであるとしてきたわけです。

 と、ここまでの「学び」の構造は、明証的であったのですが、最近、私が考えていることは、この先です。「では、さらに、この『学び』は、何に属しているのか?」ということです。

 前述したように、どうやら、人間の本性に属しているということは分かってきています。現段階では、人間の本性に属していると思われている、例えば「芸術」だとか、「真理」だとかと本性との相関を、「学び」とのそれと比較している最中です。今、確立しつつある方法の1つは、人間社会の中にモナド的なものとして紛らされてしまっている要素(痕跡)を拾い出してくる方法の確立です。この方法が確立できれば、この方法を学習者と共に実践することによって、「学び」が持つ非隠蔽性が発現してきて、「学び」が属している土台との関係がより鮮明に見えてくるはずであると思っています。この手法のことを、私は「学びの救済手法」と呼んでいます。

 おそらく、その土台は、「存在」、すなわち、人間の本性である「自然」なのではないかと思われますが、まだ、確信するための制作的実践の試みが不十分で、現時点における私の眼差しの方向は、「存在と学び」ではなく、「学びと存在」です。

 私が考えた、「学びの救済手法」を多くの学習者と共に実践し、少しでも「学びと存在」の関係を、「存在と学び」であると確信できるようにする。それを今年の目標としたいと思います。

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 2月

   「ライブドアショック」

先月末は、何やら経済がらみ、特に株式市場に関係した出来事がいろいろと発生したようです。なかでも、堀江氏をめぐる動きには、いろいろなことを考えさせられました。そこで、彼をめぐる出来事の私なりの見方を、いくつか紹介してみたいと思います。

 いくつかの見え方があるのですが、まず最初の見え方は、極々一般的な見え方です。それは、彼を悪者にする見方です。特に、多くのメディアにみられます。事件となる前までは、やれニューリーダーだとか、成功者だとかと持ち上げておいて、事件となった途端、手を返したように、悪者扱いにする。
 こうした、手を返す手法もさることながら、購読者や視聴者を開拓する手法の1つとして、自分たちが報道をすることによって、その時折のトレンドをつくり、新しい市場をつくっていく、この手法を駆使する目的は、あくまでも新しい市場の開拓にあるので、ニュースの本質性は、あまり関係ないと思います。原則として、話題性をつくり出すことが重要な要素であるのです。つまり、事件の前と後において、ターゲットとした人物の落差というか、見え方に大きな変化があればあるほど、おもしろいということになります。
 そういう意味では、今回の事件の前、後において、多くのメディア演出はかなり功を奏し、その目的を十分に達成できたのではないかと思います。

そして、次に政治的な見方です。昨年以来、小泉改革の成果なのかどうなのかは、よく分かりませんが、日本の経済は、回復基調になったといわれ、その1つの指標である株式市場は、バブル崩壊以来の活況を呈しています。活況を呈しているとはいうものの、バブルの崩壊を経験した日本は、経済の回復基調において、懐疑的な意識が残っていることを払拭しきれていません。現在の回復を、一時的なものにしないためには、確実な発展形態を定着させなければなりません。現在の経済的発展を引導しているのは、政府の当初からの目論み通り、新規参入業であるIT関係の企業が中心となっています。言い換えれば、今後もこうしたIT関連の企業に着実に発展してもらい、同時に日本の経済活動の中心的な存在となってもらわなければならないのです。そのためには、彼らの発展が虚像ではなくて、実像であり、次世代における日本の基幹産業の1つを担うものとして定着してもらわなくてはいけないのです。
 そうした視点からみた場合、現段階のIT関連企業は、確かに急成長はしましたが、不透明な要素を多く含んでいます。特に、いわゆる企業倫理という点についてです。この点を曖昧にしたままでは、パブリックな意味の企業として認知されません。したがって、日本の経済界において、より健全で清潔な部門として、定着させるには、その正当性を高める必要があります。このことは、内外に対して、日本の経済システムの信頼性を高めることにもなります。

日本の基幹的な経済活動の1つとして、内外に認知させ定着させるためには、自浄監視能力によって、膿を出しきり、次のステップに進むことが必要であったわけです。ある意味で、バブルの失敗が教訓的に生かされているのかもしれません。おそらく、今回の事件で、そうした体質を潜在的に持つ、いくつかのIT企業は、早急に体質改善を試みることでしょう。

次の見方は、この事件にからむ動きを経済活動全体という視点から見た場合の見え方についてです。今回の一連の動き、または、前述をしたような見方は、その1つの前提として、経済発展のための拡大行動であるとしている点です。一番分かりやすい拡大点は、市場の拡大ということであると思います。市場が拡大されれば、収益も増加するという視点です。今回、ライブドアが使った手法をみれば、そのことがよく分かります。株を分割して、その発行数を多くするとともに、1株の価格を下げ、小額でも株の取引を可能にし、株の取引をたくさんの人にさせ、そこから新たな資金を調達するという手法です。こうした、一見、新しい市場を開拓するような方法は、実際、経済界全体の発展となっているのでしょうか?

私の見え方では、市場が抱えている貨幣的な価値は、実際のところは、一向に増加をしていないように見えます。もう既に、全体量としては限界に来ている貨幣価値量を新たな消費価値観を提供することで、再分配しているだけのように感じます。したがって、一見、拡大にみえている動きも、実は、分節化に過ぎないのではないかと思えるのです。

当たり前の話ですが、経済活動は、経済という領域の外に出ることはできないということです。そして、経済活動をする領野は無限ではなく、有限であるということです。このことは、最近よくいわれる階層の2極化をみれば想像がつきます。

さて、ここまでの見方は、ある意味で、一般的な見方であるといえるでしょう。日本における資本主義経済社会の発展ということを自明の理として、発想する視点です。実際、多くのメディアは、こうした自明の理の正当性を疑うことなしに主張が繰り替えされていますし、各企業は、より収益を上げることが自明の目標となっています。そこで、最後の見方としては、視点を少しずらして自明の理を疑うという視点からの見方をしてみたいと思います。

その見方の流れは2段階になると思います。まず、1段階目は、お金を儲けるということが、しあわせな生き方につながる、とどうして思うようになったのか?
 次の段階として、お金を儲けるとか儲けないとかという考え方そのものが、どうして発生してきたのか?

この2段階の流れをふまえて少し考察をしてみましょう。
 最初に、「どうして、お金を儲けるとしあわせな生き方ができるのか?」ということについて考えてみましょう。このことを考えるには、やはり、その前提として、現代社会に生きる私たち、とりあえず、日本人を中心に考えましょう。現代日本人は、近代的資本主義社会の中で暮らしています。日本人であるかぎり、日本の資本主義社会の外に出ることはできません。つまり、日本人は日本の資本主義社会に属していることは自明であり、多くの場合は、その前提を一々確認することはありません。したがって、前述した質問をもう少し詳しく言い直せば、「日本の資本主義社会の中では、どうして、お金を儲けると、しわせな生き方ができるのか?」ということになります。この問いかけには、近代資本主義社会とは、どういった社会であるのかという問いも含まれています。近代資本主義社会とは、簡単に言えば、貨幣というツールを使い、自分が欲する物を手に入れることができる社会ということになると思います。つまり、近代資本主義社会を生きる多くの人は、自分にとってのしあわせとは、言い換えれば、希望を叶えることであり、そのためには貨幣と交換することが一番近道であるということになります。ゆえに、多くの人は、自分にとっての価値がある物と交換可能な価値を持つ貨幣を手に入れることに夢中になるのです。単純な言い方になるかもしれませんが、現代社会は、希望=貨幣といってもよいのかもしれません。

第1段階の考察で、表面的な見解ではありますが、現代社会では、希望=貨幣であるということが分かりました。ゆえに、多くの人は、自分の希望を叶えるために、より多くの貨幣を獲得することになり、獲得できた貨幣を希望と交換することにより、しあわせを感じるということまでは推測することができました。では、さらに、なぜ、貨幣を儲けるとか儲けないという考え方そのものが発生してきたのかということを考えてみましょう。人間にとって、お金を儲けるとか儲けないとかという意識は、言い換えれば、得をする、損をするという意識なのではないでしょうか。皆さんが、得をしたとか、損をしたとかという感覚を感じるときを思い出してみてください。

得をするという感覚は、それが、物質的な物を得た結果であれ、精神的なものを得た結果であれ、最終的な得の感覚は同じものであると思われます。それは、自分が予期していないとか、経験したことがない前向きな気持ちを得たときではないでしょうか。それに対して、損をしたと思うときは、それが物質的な物を失ったときであれ、精神的なものを失ったときであれ、何かもう既に自分が持っているものを、欠くというような、消去的な気持ちをさすのではないでしょうか。つまり、得は、+(プラス)的なイメージであり、損は−(マイナス)的なイメージであるわけです。おそらく、多くの人が、こうした共通のイメージを持っていると思います。

すなわち、社会の仕組みがどうこうという前に、人間は、持っていないものを得れば、得した気持ちになり、つまり、しあわせな気持ちになり、持っているものを失えば、損した気持ち、つまり、不しあわせな気持ちなるわけです。

ここまで考えてくると、最終的な1つの見方が明らかになってきます。それは、どうやら、近・現代日本の資本主義社会は、そもそも人間が持つ本性というか、習性を巧みに使ったシステムにより、お金を儲けることが、しあわせ獲得する唯一の方法であると思わされている社会なのではないかということです。

いろいろなことが見えてきたと思います。こうしたいろいろな見方を知った上で、後は、その人の生き方のスタイルだと思います。先にも書きましたように、自分が生きている数十年の間では、資本主義社会から脱するのは不可能であるから、うまく適応をして、貨幣的しあわせをより多く獲得しようとする生き方もあるでしょう。また、そうではなくて、みんなが得したような気持ちになる方法を、貨幣の獲得以外の方法として提案できる生き方をしようと思った方もいるかもしれません。

私の場合は、自分にとってしあわせな生き方とは、貨幣的希望を得るのではなく、今世から失礼するときに、いろいろなものを皆さんから頂いたなと、相当に得した気持ちのまま、あ〜おもしろかった、とおさらばすることです。

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 3月

 
 「ミュンヘンを観て」

 寒かった冬も、少しずつ和らぎ、桜の季節が近づいてきました。
 新しい年度を間近に控え、新たな一歩を踏み出す人も多いことでしょう。
 勇気を持って、新しい挑戦に取り組んでください。
 
 今回は、最近観た映画の感想を書きたいと思います。
 その映画は、スピルバーグ監督の「ミュンヘン」という映画です。

この映画は、1972年のミュンヘンオリンピックで起きたテロ事件を題材にしています。このテロ事件は、イスラエルの選手11人が、パレスチナのテロ組織によって殺されたものです。映画のあらすじを簡単に紹介すると、このテロの報復として、イスラエルの諜報機関のモサドがパレスチナ関係者の暗殺計画を立て、実行していく話で、その実行グループのリーダーだった男の言動に焦点を当てて、ドキュメンタリータッチで描いています。

中心的な見所は、テロにはテロでお返しをするというテロ的活動ならではの暴力シーンの再現と、国家のためとは言え、任務である暗殺計画を遂行していくうちに、家族との関係の中で、発生してくる主人公の心の葛藤を描いているところです。スピルバーグ監督と言えば、皆さんもご存じの通り、ユダヤ系アメリカ人として、ユダヤ人と世界との関係を描いた「シンドラーのリスト」などの作品を作っていることは、よく知られています。今回の作品も、イスラエルとパレスチナの問題を、テロの報復合戦という視点から描いたわけです。

 この映画の見方、見え方は、いろいろあると思います。
 まず表面的な見方ではありますが、暴力に対する、暴力による対抗措置では、暴力の連鎖を呼ぶばかりで、解決にならないという、ごく自然な見方です。しかし、こうした見方の背景として、ユダヤ人の歴史とか、国家との関係だとかを考える必要があります。当然、この映画でも、そうしたユダヤ人ならではの葛藤が、随所に出てきます。そうした背景を理解した上で、改めて、この映画のメッセージ性を考えてみれば、やはり、暴力に対して、暴力を行使しても、抜本的な解決にはならないのだから、話し合いなさいと言っているように見え、さらに話し合う前提として、全ての人間が持っているはずの、家族愛だとか、性愛だとかを共通了解し、話し合うことが大事だといっているように見えます。

しかし、こうしたコミュニケーション論的な、見方は、いくつかの限界というか、課題を孕んでいるように感じます。そうした限界として、考えられる主なことは、2つあります。

1つは、欧米的な物の考え方の根源という点です。特に、ユダヤ人と欧米社会におけるその社会観との関係性は、切っても切れないものである、ということです。例えば、近代国家における社会制度に基盤となっている民主主義という制度の基となっているのは、ユダヤ人社会の慣習が参考にされているといわれています。さらに、近代国家における柱の1つである法制度概念についても、多分にユダヤ的な視点が組み込まれているともいわれます。少し、飛躍的な話となってしまいますが、ユダヤ人社会を含む近代国家は、民主主義制度や、それに基ずく法制度など、さらにもっと深く切り込めば、そうした制度の存在に先立つものとしてある言語の存在を無視することはできないということです。つまり、民主主義的制度や、その中心的思想である「話せば解る」という考え方などの成立する環境そのものが、暴力を前提としているのです。このことは、そうした制度などの存在に先立つものである言語の存在も深く関係していることは言う間でもありません。言葉で表現をするということは、表現をされた物、例えば、人間が名前をつけられた途端、それは、最初の暴力、すなわち原暴力というようなものが発生することなのです。

暴力を否定するために、言葉を使うこと自体が、もう既に次の暴力を誘発していることになるわけです。このように、近代社会が、「話せば解る」というシステムを採用している以上は、言葉による名前づけの暴力を、社会制度や道徳などという規程によって、次の暴力で押さえ込み、原暴力の存在を隠蔽します。そうした原暴力の隠蔽は、人々に自分たちの社会の前提として存在していた暴力を忘れさせます。そうした意味では、そのような原暴力の存在を忘れたままで、主張される「話せば解る」というような論理や「非暴力」の主張は、どうしても説得力をかきます。

短絡的な説明となってしまいますが、軍事力の行使を認めているアメリカ社会における資本を使い、アメリカ社会の中で、こうした映画を作り配給している今回の映画などは、このような根源的な暴力の存在を暴露されたとき、せっかくの主張が、その足下から崩れてしまう可能性を持っているのです。

 そして、もう1つは、映画という表現手法です。
 
以前にも書いたように、映画という表現手法は、コラージュ手法です。いくら、その題材が史実に基づいたとものであるといわれても、編集構成されたものであることには変りがありません。良かれ悪かれ、映画という作品となり、世界に公開された以上は、ドキュメンタリータッチであったとしても、史実に則ったオリジナルではなくなり、さらに、その作品の解釈そのものも、観た人通りの見方が作られることになります。もし、作者がその作品に何か、自分だけの思いを込めたとしても、映画という手法を使うかぎりでは、世界に1つのオリジナルであることはできません。

続けざまに、こうした暴力について考えさせる映画の限界みたいなものを指摘してしまいました。前述したような課題を考えてしまうと、こうした映画は、暴力連鎖の抑止的な意味は持てないのではないかと思われてしまうことでしょう。しかし、私から見た場合、前述したような映画の持つ性格は、両義的なものであると思っています。確かに、前述したような、ある限界を有していることは否定できませが、一方では、こうした作品であるからこそ、可能性もあると思うのです。特に、映画という手法を使い表現をしているということは、ある可能性を持つものであると私などは、思っています。その可能性とは、映画という手法の諸刃の剣ではありますが、映画が持つ複製技術による表現の反復性です。これは、先にも書きましたようにオリジナルでいられないという弱点でもあるわけなのですが、一方では、複製され続けるという強みでもあるのです。ある意味で、コミュニケーション論的な暴力否定手法が、希望は持たせるが、相当に限界があるものである。特に、近代形而上学的社会においては、最終的には、視点を転回する必要があるということを表現し続けることになるのです。このことは、映画という手法が持つ可能性であると思います。こうした映画を世界中の人が観て、暴力とか、平和とかという問題を、哲学でいうところの超越論的な視点でみる必要がある。すなわち、世界観を変革する必要があると、気づかせることができればよいと思うわけです。暴力の連鎖を終わらせるためには、それに先立ち、どうして暴力的な解決思考が発生してきてしまうのかを考える必要があり、その視点に立って、そもそもの世界観を換える必要があるという共通の理解を広げる必要があると気づいてもらわなければいけないと思うのです。

 今回は、「ミュンヘン」という作品を通して、イスラエルとパレスチナの間で発生し続けている暴力の連鎖ということの止揚の可能性について考えてみました。もしかしたら、イスラエルとパレスチナの問題には、日本人は、あまり関係がないと思った方もいらっしゃるかもしれません。こうした暴力の連鎖としての構造は、何も彼らだけの問題ではありません。日本の中にも、日本の近代化に伴って、同様に暴力の連鎖が続いている問題が数多くあります。例えば、沖縄の問題も、その1つです。特に、最近の沖縄に関係する問題の多くが、「民主主義国家」という考え方とシステムの中へ、回収されていっているようにみえます。そうした解決の方法は、実は、根本的な暴力解決とはなっていません。もう既に、相当に欧米化されてしまっている日本社会において、同様な作品が作られるとか、「ミュンヘン」のような作品を観たときに、多くの日本人が、日本の中にある暴力の問題を真摯に考え直す契機となってくれればよいと思いました。

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 4月

   「江戸の学び展」に行って

 さあ、新年度の開始です。

 新しい生活のスタートをきった人も、たくさんいらっしゃると思います。
 最初から、張り切って飛ばしすぎると、途中で息切れしてしまいますから、ボチボチとやっていってくださいね。自分のペースで、確実に一歩、一歩、進んでいくことが大事ですよ。

 もうすぐ桜の季節だし、陽気もだいぶ暖かくなってきたので、少し外の空気でも吸うかと思い、新聞の催事欄を読んでいたら、江戸東京博物館で、「江戸の学び展」をやっていると書いてありました。「学びすと」の私としては、「学び」という言葉を無視することはできません。さらに、ここ数年、興味を持っている江戸時代の話だそうです。私にとっての二大興味である「学び」と「江戸」が重なっている催し物だとすれば、行かないわけにはいきません。久しぶりに東京へと上りました。

 いつもながら、東京は人が多いですね。それも、最近は外国の方もたくさんいらっしゃる。いろいろな国の言葉が、あちらこちらから聞こえてきます。まあ、私の日本語聞き取り能力も相当に怪しいので、勝手に外国の言葉のように聞こえているのかもしれません。乗り換えのため、秋葉原駅で降りて、回りを見渡せば、昔とは違った雰囲気が漂っていました。これは、一度、秋葉原探訪をしなくてはいけないと、興味津々のままに、博物館のある両国に着きました。大学生の頃、両国には、ちょっと用があって、何度か来たことがあったのですが、博物館がある側は、ここもだいぶ感じが変わっていました。それゃそうですよね。もう、30年近くも前の話ですから。

 案内板に沿って進むと、入り口まで難なくたどり着くことができました。学び展は、企画展なので、1階の方で行われていました。常設展示は、5階・6階だそうです。結果として、常設展示も観たのですが、今回は、学び展の方を中心に話をしましょう。「江戸の学び−教育爆発の時代−展」と銘打った展示は、序章「教育爆発の時代」、第1章「寺子屋に学ぶ」、第2章「学びを楽しむ文化」、第3章「学歴社会への胎動」、終章「学びの近代化」という構成になっていました。

 こうした展示物の中でも、私が一番、興味を持っていたのは、寺子屋のことでした。いわゆる現在のような学校がなかった江戸期の日本において、武士層の子どもも含め、庶民の子どもたちの「教育」を担っていたのが、全国に相当数あった寺子屋だったからです。寺子屋の数もさることながら、さらに、寺子屋に対して興味を持っていたことは、その教授のスタイルです。その教授の形は、現代の多くの方が経験している一斉授業という形態ではなく、個別授業という形態だったのです。

 
このことからも分かるように、明治維新以降に輸入された「教育」以前の日本独自の教育が、寺子屋にはあるのです。

 以前にもふれましたが、もう一度、「教育」という言葉の話をしておきましょう。「教育」は、明治維新後、輸入されてきた「education」という英語の訳である、とされています。誰が、最初に訳したのかは、不確かですが、1870年代前半に書かれた日本最初の学校教育制度に関する基本法令である「学制」の中で、「教育」という言葉が使われていることなどから、70年代以降、日本では、「教育」という言葉が、一般的に使われだされたようです。そして、意味は、文字通り、「教え育てる」という意味で、国家の人材となる国民を作り出していこうとする意味でした。

 そもそも、英語の「education」の意味は、「子どもの資質を引き出す」という意味でしたが、ヨーロッパ社会の形而上学化に伴い、国家の人材となる人間を教え育てるという意味に変化してしまっていました。特に、産業革命以降のヨーロッパにおいては、「education」といえば、富国強兵の礎である人間を作ることが、その目的の中心となってしまっていたため、その「education」を模倣した、明治日本は、「education」を「教育」と訳したのです。

 だから、厳密にいえば江戸期には、明治維新以降の日本がいう「教育」はなかったわけです。では、「教育」がなかった江戸期の日本には、何があったのでしょうか?そのことを考えるのに、よいヒントがあります。福沢諭吉が書いた「学問ノススメ」という書物を思い出してください。この書物は、1872年に出版されたとされています。実際に書かれたのは、それより前であると考えられます。福沢諭吉は、1860年代には、ヨーロッパ視察に行っていますから、ヨーロッパでの視察に触発をされて、60年代の後半に「学問ノススメ」を書いたのだとすれば、「教育」が輸入される直前における、知識人の教育的なことに対するイメージは、「学問」という言葉が意味することであったと推察されます。彼が、この書物を「教育ススメ」ではなく、「学問ノススメ」としたことからも、当時の教育観が推察されます。

 日本で古くから、使われていた「学問する」または、「学文する」という言葉の意味は何であったのかといえば、「学芸を修めること。学び習うこと」とされています。また、江戸期において、「学問」は、「手習い」とも同じ意味であったといわれています。「手習い」も、「学び習う」ことであったのです。その「手習い」を行ったのが、寺子屋だったのです。

 ここで、ちょっと話は戻ってしまいますが、福沢諭吉は、「学問する」ことをどのような意味で捉えていたのかみてみましょう。彼は、「学問ノススメ」のなかで、ただ単に、いろいろな知識だけを覚え、本だとかを読めるようにしただけでは、学問をしたことにはならないといい、自分で考える力をつけなくてはいけないといっています。

 福沢諭吉がいっていることからも分かるように、日本でいうところの、「学問する」、すなわち「手習う」、つまり、「学び習う」こととは、どうやら、学習者が、本来持つであろう一つの能力を引き出すことに繋がっているように感じます。となると、まさに、寺子屋は、子どもたちの資質を引き出す場であった可能性が高いということになるのです。このことの証左の一つが、先にも書いたように、寺子屋では、一斉授業をしなかったという事実です。あくまでも、個別授業で、学習者一人一人のニーズに合わせた学習援助をしていたのです。したがって、今回の企画展は、「江戸の学び」という大テーマはよいとしても、サブテーマの「教育爆発の時代」は、正しくいえば、「学び爆発の時代」といわなければいけないですし、内容としても、江戸期の学びを単純に、近代日本にける教育と結びつけてはいけないのです。

 近代国家における「教育」は、その前提として、お金や時間をなるべくかけずに効率よく、ある一定基準の知識や技術を教え込むものでした。ゆえに、個別授業という、非効率的な方法は、そもそも採用されません。さらに、もし、個別授業を採用したとしても、学習者一人一人の学習興味に合わせて学習支援を行おうとすれば、そのために必要な教材だけでも膨大な数になってしまいます。現代のシステムを利用したとしても、物理的に困難な作業であることに違いありません。

 もし仮に、江戸期の寺子屋などのシステムが、ただでさえ、困難であるはずの、学習者一人一人の学習ニーズを保証するという学びのシステムを実現していたのだとすれば、一体、どうやっていたのでしょうか?今回の企画展で、私が一番知りたかったのは、このことでした。

 寺子屋の学びを支えていた物の一つに、「往来物」といわれた教科書がありました。今でいう各教科に分かれたこうした「往来物」は、なんと、約7,000種類以上もあったそうです。と同時に、こうした教材を使いこなすことができる指導者も必要するわけなのですが、国家によって、規格化されていない、さまざまな指導者たちが、独自の理念で、寺子屋の学びを支えていたわけです。このような、江戸期の人間力は、想像以上のものがあります。展示されていた、寺子屋師匠の日記を読むかぎりでは、当時の指導者(師匠)は、ある意味で、優れた職人であり、地域の子どもたちの育成を総合的に援助したプロデューサーのような役目を担っていたことが、分かります。また、こうした師匠には、女性が多く進出していたことも知りました。

 こうした日本的な学び援助システムの稼働の結果、同時代のヨーロッパなどとは比べ物にならない数の、読み書きができる庶民を輩出していました。このような文化的水準の高さは、江戸期の庶民の楽しみの一つが、読書であったことからもよく分かります。貸本屋などに、女性をはじめとする庶民が気軽に出入りするような、文化は、世界広しといえども、そうあるものではありません。

 では、最後に、このような日本独自の教育観が栄え、そして、衰退していってしまった理由を少し考えて、今回の話を終わりにしたいと思います。社会の発展形態の大枠でみれば、日本もヨーロッパの各国と同様に、国家の中央集権化に伴って、形而上学化が進んだといってよいと思います。しかし、一般的に言って、国家の中央集権化に伴って形而上学化された社会では、「学び」も「教育」へと変化していきます。しかし、日本の場合は、「学び」が社会の中に根強く残ったわけです。このことを、簡単に社会の後進性であるとしてしまってよいのでしょうか。

 「存在」の意味をどのように考えるのか? すなわち、自然(本性)に対する価値観の違いを理解することです。巡る四季折々の自然の変化の中で、日々生活している日本人は、自然の存在をその昔から、相当に身近なものであると感じていたはずです。むしろ、人間も自然の一部であり、自然によって生かされているのだと思っていたのではないでしょうか。自然と一体的で調和的な暮らしこそ、日本人にとって、しあわせな生き方だったのではないでしょうか。そうした、生き方をしているかぎりは、「学び」は必要であっても「教育」は必要ないわけです。「教育」は、機械化され分裂した社会に人間を適応させるためのものであるからです。大陸の中で、いくつもの国家がひしめくヨーロッパ社会において、人間の存在を保証するためには、国家の形成と安定は、不可欠です。そのためには、絶えず国家の人材である国民を輩出し続け、源暴力と呼ばれる国民であることの存在付けをやり続ける必要があります。国家の存在、つまりは、国民の存在のために、「教育」を必要とするのです。おそらく、海に囲まれた海洋型の社会である日本と、陸に囲まれた大陸型の社会であったヨーロッパとでは、発想や物の見方が逆だったのかもしれません。

 ご存じの通り、明治維新以降、日本は、欧米に追いつけ追い越せということで、急速に欧米化社会の実現を目指しました。表面的には、パーフェクトに欧米化された社会を構築してきました。ゆえに、「学び」は、隠蔽され「教育」が中心の社会へと変貌を遂げることになるのです。さらにここで、学びの非隠蔽性についても話たいところですが、以前にも書きましたので、省略します。

 また、長くなってしまいました。とにかく、そろそろ、「学び論的転回」が必要な時代になってきたのではないかと、江戸の学びを観て再び思った次第です。
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