フィールドワーク沖縄2002                            bP
 心は南国細道
今年のフィールドワーク沖縄は歩くと決めていました。なぜ、歩くと決めていたかというと、今まで、移動はバスやタクシーなどを多く使っていたので、フィールドワークに重要な距離感や土地勘というものが頭に入っていなかったからです。その土地の歴史や文化などを知ろうとするとき、多くの場合、書籍や資料によって、情報を得ることが私たちはできます。しかし、その中に書いてある各土地にまつわる様々な情報は、その土地に元々存在しているその土地ならではのいろいろな要素から成り立っています。例えば、その時、アメリカ軍は、この町の南西部から侵入してきたと書いてあったとします。確かに、地図などを読み取る力がある程度ある人は、その地形から、おおよその理由が推察できるとは思います。でも、6月の沖縄の気候はどうであったか、こうした勾配の所を数10キログラムの荷物を持って移動したときの疲労感はどうであったのかなどまでシュミレーションし、南西から侵入してきた理由を考えることができる人はそう多くはないと思います。歴史的出来事があったときに近い環境で、実証実験をしてみる。そこから新たな疑問や仮説が生まれるてくると思うわけです。そんな理由で今年は、少し汗をかいてみようと思ったのでした。

【第1日目-1】
いつもながら、梅雨時の神奈川から、同じ梅雨時とは言え、もう梅雨明け近くの沖縄に来るとその温度差にびっくりします。飛行機を降りると湿気を帯びた熱い風が頬を撫でます。「これが沖縄だ」と感じる瞬間です。この時期に沖縄に来るとまず気にかかることは、今年の雨の量です。なぜ雨の量が気になるかというと、島国である沖縄はその飲料水の多くを北部に降る天水でまかなっているからです。北部のダムがこの時期の雨によって満水にならないとこの後の夏を乗り切るのはたいへんなことになります。沖縄の人たちにとって、水は貴重で、こうした生活用水の他に沖縄の基幹産業である観光業にも影響を及ぼします。水不足では、リゾートホテルも形無しになってしまうからです。今年も私たちが訪れる直前に降った雨によってどうやら貯水率が60%を越え、夜間の出水制限は回避されたとのことでした。そして、今年もう一つ気になっていたことは、今国会で審議をされている有事関連法案に対する沖縄の人たちの反応です。昨年末は、アメリカでのテロ事件の影響を受け、沖縄の観光が大きな打撃を受けました。これも沖縄に米軍基地があるが由の影響です。このことは、逆の見方をすれば、ヤマトの人間は、米軍基地があることはその場所の安全保障にはならないということをよくわかっているということの証明です。つまり、わかっていながら、その危険の種を沖縄という場所の押しつけているということになると思います。もし、米軍基地が日本の安全保障を担っていてくれているのだとすれば、有事に沖縄ほど安全な場所はないからです。何ていっても日本国内にある米軍基地の70%があるわけですから鬼に金棒です。

とともかく、初日の本日は、明日からの活動に備えて準備をすることにしました。宿に荷を置き、昼食をとりつつ、歩くのに必要な資料やら不足していた道具やらを調達しに沖縄のメインストリートである那覇国際通り方面へと向かいました。まだ、梅雨が明けていないせいか、いつもであれば観光客でいっぱいの国際通りもあまり人がいず、スイスイと歩くことができました。私が最初の向かったのは、国際通り中程にある平和通りです。この通りの300mほど入った左側に何屋といいましょうか。雑貨屋というか、金物屋というか、日用雑貨品を取りそろえた昔風スーパーがあります。ここには、沖縄ならでは昔風のものから現在のものまで揃っているので沖縄で必要な生活用品を買うためにいつも立ち寄ります。いろいろあるコーナーの中で、今回は関係ないのですが、気に入っているのはお鍋のコーナーです。そこには、沖縄ならではのお鍋である油鍋が、大小取りそろえてあり、その不思議なフォルムと材質は、何度見ても飽きません。そこでちょこっと消耗品を購入し、さらに平和通りの奥地へと足を踏み入れました。途中に何軒かあるバック屋さんが目当てです。暑い沖縄で歩くとなるとバックは重要です。一般に考えれば、歩くわけですからデイバックのようなものがよいと考えられますが、背中にフィットしてしまう背負うタイプのバックは今一です。汗で背中がびっしょりになってしまうからです。かといって、ショルダーのようなバックだと片方の肩だけに重さがかかってしまい歩きづらいことになってしまいます。いくつかのお店を回って最後、オバーが一人でやっている間口一間ほどの小さな店に入ったところ、理想に近いバックを発見しました。なぜかカナダのメーカーです。一見、ただの袋ですが、うしろにルーズな背負いひもがついています。ルーズなので、背負っても背中にはフィットしません。でも、肩からずれないように微妙にカーブがつき、2本ある背負いひもの長さが調節してあります。上部の入れ口には、手提げ用のストラップもつき、表にはファスナー付のサイド収納もついています。一目で気に入り、購入することにしました。千と七百円でした。平和通りを出て、国際通りの県庁側にあるパレット久茂地なるデパートをめざしました。途中、様々なお店がならび買い物心をくすぐります。思わずワールドカップ記念でカナリヤイエローのTシャツを買ってしまいました。風水的も黄色はお金を呼ぶらしいので、風水によって作られた那覇の町に似合うだろうと手にとってしまったわけです。

またまた、強敵な店が現れました。東京にも支店がある沖縄物産専門のわしたショップです。今、学園でも沖縄文化の紹介の一環で沖縄物産を提供していることもあり、沖縄物産には目がいってしまうのです。不覚にも店内に引き込まれてしまいました。あれやこれや試食し、最後にシークワァーサージュースを飲み干し退散しました。ようやっと目的の場所に到着しました。那覇の総合デパート、パレット久茂地です。ここにある本屋に来沖すると必ず立ち寄ります。ここの本屋は、まず沖縄関係の本が一番充実しているのです。はじめ、沖縄コーナーに立ち寄り、新刊の本をチェックします。沖縄は、沖縄関連の現地本の出版がとても多く、神奈川では手に入らない本がたくさんあり、あれもこれも欲しくなってしまうわけです。後、内の方では、もう手に入らないような本もあったりして、探索する楽しみもあるのです。でも、今回は、明日からの行動に備えて、地図関連を買い揃えました。よし、これでok!準備完了。                    つづく
 ● 国際通り  ● 公設市場  ● パレット久茂地
奇蹟の1マイルなどと呼ばれ、戦後いち早く復興し、沖縄の生活、経済の中心地として現在まで、近代沖縄の象徴的な通りとなっている。通り沿いには、お土産物屋をはじめいろいろなお店が立ち並ぶ。でも、やはり観光地価格のため少々高め、安い物を買いたいときは、裏通りに入るべし。 公設市場と言っても第1牧志公設市場、第2牧志公設市場、那覇市牧志公設市場などがある。私の場合、よく利用するのが、市場中央通りにある第1牧志公設市場である。利用すると言っても2階建ての市場、1階の魚や肉の食料品売場は、ウインドーショッピングが多く、もっぱら2階の食堂利用に限られる。 どうやら正式には、「パレットくもじ」と呼ぶらしい。デパート、映画館、市民劇場、市民ギャラリーなどがある。デパート部分でよく利用するのは、本文出の本屋とその下の階にある無印ショップ、あと9階にある映画館も時々、それと手打ちそばの「みの屋」さんで煮付け定食700円は、よく食べる。あと、市民劇場や市民ギャラリーでは、興味深い催し物をよくやっているので、要注意です。今回のFW期間も学園の恩人の一人、写真家石川文洋さんの写真展を開催中でした。


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【第1日目−2】
● 肉食って力蓄える
気がつくともう夜です。飯を食わねばいけない。那覇の街には、様々な料理の食堂やらレストランやらが軒をならべています。食べたいものによって、その日に行く場所が決まります。今夜は、明日からの行動を考えて何か力がつく物でも食したいと考え、宿の近くにある洋食屋に行くことにしました。アメリカのある都市の名前がついたそのレストランは創業40年をむかえた老舗です。肉料理と海老などのシーフードを揃えたその小さなレストランは、扉を開けるとよい感じで歳をとったアメリカンレストランの雰囲気が目に飛び込んできます。店の片隅に置かれたレコード仕様のジュークボックス、BGMには、ジャズが静かに流れています。40年前と言えば、まだ、沖縄が占領をされていた時代です。当時、米軍が米軍関係者が入っても大丈夫な飲食店などに対して、Aサインという許可書を出していました。Aサインのお店なら安心というわけです。今ではただの記念品ではありますが、店によっては、そんなAマークの許可書を貼ってある店もあったりします。席につくと、テーブルにキャンドルライトを灯してくれます。照明を落とした店内にジャズの低音が心地よく響きます。さて、何を食べようかとメニューを見ます。何と40周年記念で全品半額ではありませんか。明日からのことを考え、迷わずステーキにしました。サラダ、スープ、飲み物、デザート、ライスはなぜがチャーハンも可のフルセットで、定価が1000円そこそこです。その半額!幸せ!食べ物が安い土地に行くと、本当に幸せな気分になるのは私だけでしょうか。十分にエネルギーを補充して明日にそなえたのでした。

【第2日目−1】
● 太陽と水、まさに太陽は強敵
明けて2日目です。FW前半戦に歩くコースはだいたいイメージができています。歩いているコースを地図などで確認をしてもらえれば、皆さんも気がつくはずです。まだ、梅雨が明けてはいないとは言え、もう終盤でもあるので、陽が照るとその日射しは、想像以上の強さがあります。日射し対策は十分に考えなくてはいけません。それとやはり、陽がさせばなおさら、ささなくても気温は高いですから、すぐに脱水症状になる可能性があります。こまめに水を補給する準備をしなくてはいけません。などと準備をして、いざ出発です。まず、歩き出すスタート地点までは、バスに乗っていくことにしました。沖縄には、鉄道がないので、車を持ってない人の移動の足は、バスかタクシーということになります。近くの場合は、タクシーの1メーターの料金が安いので利用しやすいのですが、小1時間も移動するとなるとバスが有利です。近い将来はモノレールが開通する予定なので、移動はもう少し楽になるかもしれません。スタートの場所は、読谷村の楚辺の海岸と決めました。那覇からバスに乗り、約1時間、象のオリのハンザタワー、世界遺産の座喜味城趾、そして、戦後の反基地闘争などで有名な読谷村は、本島の中部、東シナ海に面したところにあります。キロロの出身高校で有名な読谷高校の前を通りしばらくするとバスは楚辺の停留所につきます。

● 三歩進んで二歩下がれ
まだ、梅雨明け切らぬ空は、どんよりと曇り、歩くには幸いな朝となりました。はじめの一歩を記念すべく、バス停を左に折れ、海岸方面へと向かいます。まだまだ、元気いっぱいで足どりも軽く潮風の吹く方向に歩いていきます。昼間の沖縄は、やはり出歩いている人は少なく、風の音だけがやけに耳に残ります。まあ、今日が平日というせいもあるとは思いますが。数分歩くと海に行き当たりました。突き当たったところはちょうど児童公園となっており、こんもりと茂った木々の中にジャングルジムや滑り台が点在していました。目の前に広がる海は、いつも私が見ている太平洋とは、若干というかだいぶ違う色をしています。今日は曇りにも関わらず、海の色は、あくまでも透明で、砂は白いのです。これから歩く道のりを思います。でも、実際、今までの経験の中で、1日でどのくらいの距離を歩くことができるのか測ったことはありません。逆に経験がないだけに不安はないのです。どうにかなるだろねっていう感じです。さあ、海に沿って南へと歩き出しました。できるかぎり大通りには出ずに小径を行こうと決めています。地図にはのっていないような小径にわけは入り、ひたすら南をめざしました。ひょいと曲がった路地裏には、様々な施設や建物が隠れています。最初の曲がった路地裏には、「ゆんたくガーデン」なるハウスが建っていました。その直ぐ裏にはゲートボール場のようなものがありましたので、きっと年輩の方のためのスペースだとは思いますが、沖縄にはうした何気ないコミュニケーションの場が数多くあります。ちょっとした気遣いではありますが、年輩の方を地域で大事にしているなという感想を持つのです。    つづく
 ● 読谷村  ● ハンザタワー  ● 座喜味城趾 
人口約3万7千人、面積34.5平方キロメートルの村である。戦後間もない頃は、村の大部分を軍用地として取られ、生活もままならなったが、ねばり強い反基地闘争の結果、現在では、米軍用地の占有率も44.6%にまで下げさせた。「恒久平和、自主自立、共生持続」の理念に基づいて創られてきた村づくりの実践には定評がある。

俗称「象のオリ」とも言われる米軍施設。正式名は、楚辺通信施設。一部用地の使用期限切れに伴う「不法占拠」で有名になった。航空機や船舶などの交信に使われる長距離通信用の電波を傍受する施設である。キャンプハンセンへ移設される予定になっているが移設先で、電磁波などの環境保全問題が発生している。 5世紀の初頭、読谷山按司護佐丸によって築かれたと言われている。座喜味城趾は、名護層を基盤とする標高120m余の丘陵に建設されており、2つの郭からなる。それぞれの郭には、アーチ石門が造られており、アーチとくさびが調和的に組み合わされた工法は他の琉球の城には類を見ることができない。


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【第2日目−2】
● 基地は思った以上に広いのです。
右手に東シナ海を見ながら南下を続けます。静かな住宅街を抜けたとたん目の前に金網が表れました。米軍基地のようです。しかたがないので、左に折れました。いけどもいけども金網は続きます。金網がなくなったと思ったら、また大通りに出ていました。そのまま大通りを南下することにしました。丘の上に星条旗がはためいていました。どうやら基地は、トリイステーションのようでした。歩きだしてまだたいして時間は経っていないのに、腹が減ってきました。時間を見るともう昼時です。通りの向こうをふと見ると食堂があるではありませんか、さきほどまで曇っていた空も時折、日が射すようになってきました。汗もダラダラ状態です。無理は禁物、先は長いと自分に言い聞かせ、エネルギー補給にと食堂ののれんをくぐりました。お昼の日替わりランチが600円です。毎日変わる献立を見てみると今日は唐揚げの日でした。それらしき物を食べている人ののぞき見るに、そばもつきなかなかのボリューム、これならokと席につくなりランチをオーダーしました。沖縄の食堂に入るとふつうお冷やの他にアイスティーかアイスコーヒーがつく場合が多いのです。ここもアイスティーつきでした。一気に2杯飲み干して、一息つきました。汗とともに毒素が流れ出る思いです。

● まだまだ金網は続きます。
正面ゲートを右に見つつ基地の金網に沿うようにして、西へと路地に入り込みました。朝採れの野菜でしょうか大きめの野菜無人販売スタンドがありました。ヘチマやシブイなどいろいろな野菜が置いてあります。なかでも、それはそれは立派なナーベーラーが驚きの低価格で売られていました。それゃ、ヤマトの私たち、ヘチマと聞けば、夏休みの課題でヘチマ栽培なんていうのが思いだされ、できたヘチマは、乾燥させて実を取って、タワシみたいにしたのを思い出すのが関の山です。ヘチマを食す。この経験は沖縄に来てはじめてだったのです。「ナーベーラーのンブシー」、だいたい、「ン」ではじまっている単語、一体何だこれは?最初食堂のお品書きにこの名を見つけたときは、新種の動物に会ったような気がしました。これは、要は、「ヘチマの味噌煮」のことであったのです。もともと、ナス系の野菜が好きな私としては、ツルンとした感じの食感は心地よく、その後、見つけると思わず頼む料理の1つになったのです。

● 学校の後ろも家の後ろもずーっと金網なのです。
さらにダンダラの下り坂道を降りていくと小学校の裏手に出ました。基地と金網一つで区切られた場所に建てられていました。ちょうど掃除の時間だったらしく、大勢の子どもたちがワイワイと掃除をしていました。通りがかりの旅人に対しても礼儀正しく、元気に挨拶をしてくれ、気持ちがよい子どもたちではありました。学校を通り過ぎると家の回りにサトウキビ畑が広がるようになってきました。風に揺らぐサトウキビの穂先は、まるでウエーブのように押し寄せてはもどっていきます。そんなサトウキビの穂先の間からは、まだまだ基地の金網が見え隠れしています。午前中は曇っていた空も気がつくと快晴になってきていました。ジリジリと直射の日光は、私の頭を焦がします。帽子をかぶってはいるのですが、道路からの照り返しが強烈で、まぶしくて目も開けていられません。目を細目ながらの前進となりました。すごい勢いで汗が吹き出て、流れる間もなく蒸発をしていくという感じです。浴びるように水を飲んでいるのに水でお腹がいっぱいにはなりません。油断大敵!夏の沖縄。               つづく
 ● トリイステーション  ● ゴーヤ  ● 沖縄の気候 
トリイ通信施設という。冷戦時代は、アジアの社会主義国をにらんだ、「情報収集の一大拠点」であった。80年代中盤からは、アメリカ陸軍特殊部隊(グリーン・ベレー)も配備されている。ゲリラ活動など特殊任務を遂行する沖縄のグリーン・ベレーは、日本に駐屯するアメリカ陸軍の中で唯一の戦闘部隊である。 言わずと知れた沖縄の代表的な野菜。本州でもニガウリなどと言われて売られてはいるが、ゴーヤならではの苦みは沖縄産にかぎる。苦みの中にある「モモルデシン」なる成分は、食欲増進の作用があるそうだ。また、ゴーヤの持つビタミンCは、熱でも分解されず炒めて食べても大丈夫。ちなみに5月8日はゴーヤの日。 亜熱帯に属する琉球の島々は、温帯に属する本土から見るとその様子はだいぶ違う。沖縄本島の年間の平均気温は、22度から23度で、もっとも寒い1月でさえ、月間平均気温は、16度である。本州では、春の訪れを告げるものとして桜の開花があるが、沖縄では、1月には早くも桜が咲き始める。沖縄ならではの、ディエゴ、ガジュマル、アダン、ブッソウゲなどの熱帯性の植物が生い茂り、珊瑚礁の間では、色様々な熱帯魚が群をなしている。


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【第2日目−3】
● ハイビスカスは揺れ、馬はいななく。
基地の金網も西に折れたので、私も西に進路を変更しました。海岸縁は、基地内なので突っ切りことができず、ぐるりと基地沿いに迂回をしたわけです。そんなに大きな規模の基地ではないのに、迂回をするのにゆうに3時間ちかくかかりました。真っ直ぐ行けたらすぐだったのにね。渡具知の集落には、牧場がありました。牛や馬が悠々と群ていました。陽はさらに強くなり、オーブンの中にいるような気になります。アスファルト道路を伝わってくる風は熱風ですが、サトウキビ畑を通ってくる風は涼風です。遠く読谷の台地の上にはハンザタワーが見えます。その台地を囲むように読谷の村は広がっています。台地の上は、今でこそ村役場や文化施設が建っていますが、そこは米軍の読谷補助飛行場です。海に向かってひたすら歩きました。トリイステーションの南側のゲートに出ました。草地を抜けるとそこには、再び東シナ海が広がっていました。


● 十分に夏を思うのは旅人だけなのだろうか?
白い砂浜には、人影もなく、まだオフシーズンという感じでした。もう、十分にホットな感じなのですが。でも、よく考えてみたら、ここはふつうの海岸なのです。ふつうなのにこの美しさ、白い砂浜、青い海、こんな浜づたいに家があったら最高でしょうね。家の庭先がそのまま白い砂浜とつながっているなんて、海の見える高台にお墓がありました。先祖代々のお墓だと思います。うちの方では、お墓はどちらかというとお寺の裏山だとかというようにジメジメした竹林を背にしてあるイメージではありますが、ここ沖縄の場合は、必ず景色のよい晴れ晴れとしたところに立派なお墓が建っています。毎日、こんな景色を眺めながら眠っているご先祖様たちは、気持ちがよいだろうなと思ったりするのです。白い砂浜を南に向かって歩いて行きました。いつしか、浜だった海岸線も起伏の多い岩礁地帯へとその表情を変えていました。小さな入り江が入り組んだ海岸線の奥には、よく手入れがされた公園が作られていました。公園の高台に登り、今来た道を振り返ります。白い砂浜の上に足跡が残っているのです。

● クライマックスは突然に
波の砕ける音がすると思いのぞき込んだら、断崖でした。目の前をオリーブ色した南国特有のミネラルたっぷりの河がとうとうと流れています。どこかで河を渡らなければ、南下はできません。読谷村と嘉手納町を分けるこの河は、比謝川と言います。その河口は、本土のそれとはだいぶ違います。むしろ、メコン河のような南国の河の河口に似ているでしょうか。河口付近の探索は明日にすることにして、とにかく渡河するための橋を探すことにしました。河に沿って上流に向かって歩いていきました。大湾さんという姓が多い閑静な住宅街をテクテクと抜け、河に向かって右折をしたら、そこに赤い大きな橋が架かっていました。比謝川大橋です。橋を渡り、嘉手納町に入ったところで本日はおしまいにすることにしました。初日の今日はどのくらい歩いたでしょうか。10キロメートル以上は歩いていると思います。足は思った以上に快調です。明日もガンガン行くぜと空元気の気勢を上げて、宿に戻ったのでした。         つづく
 ● 亀甲墓  ● 比謝川  ● マングローブ 
亀甲墓とは、その墓の形をいうが、亀甲墓には同じ門中の人が入る門中墓や家族だけ使う墓もある。1墓当たりの平均の坪数は、家族墓で約30〜50坪、門中墓で約100〜200坪もあるという。沖縄の墓には、家族や一族郎党が入るので、大きいのだ。旧暦の3月に行われる清明祭には、家族や門中が墓の回りに集まり、掃除や会食をしてお墓参りをする。 天川ぬ池に遊びおしどりぬ 想い羽の契りゆすやしらん 比謝橋のうすや水いちゃて戻る 我身や里いちゃてなまど戻る。 ひじやかわと読みます。かつては東シナ海に注ぐ入り江は天然の良港として、ヤンバル船の寄港地で栄ました。沖縄戦当時は、河口付近に日本軍の海上特攻艇の基地が作られました。今でも当時の特攻艇を秘匿するための壕が残されています。 熱帯の河口付近で潮の干満の影響を受けるところに生える特殊な植生である。ヒルギ科の植物が主なものとなり、30種程度の植物が集まってマングローブ林を作る。潮の影響を受ける泥地に生えるので、耐塩性が強く、気根などに特殊な構造が発達している。代表的なものとしては、オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ、ハマザクロ、ニッパヤシ、ミミモチダなどがある。


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【第3日目−1】
● 嘉手納基地の回りの町は、ドーナツのような町になってしまっているのです。
今日は嘉手納のロータリーからリスタートです。今日の新聞に嘉手納の安保の見える丘を閉鎖しろと米軍が要求していると書かれていました。嘉手納基地内が見渡せるこの丘は目障りだそうです。だったら街がない所に引っ越せばよいと単純に私などは思うのです。嘉手納のロータリーに立ったころは、もう既に陽は夏日の凶暴さをむき出しにしていました。どうやら梅雨は開けたようです。町の真ん中を基地に占められている嘉手納町は、その北側に細長く広がっています。昨日の終点に向かうため、比謝橋のたもとから比謝川沿いに作られている遊歩道へと足を踏み入れました。58号線からは想像もできない原生林の林の中、遊歩道は河口に向かってくねくねと伸びていました。

● 漁港に来たら、お刺身定食。
昨日、終点とした比謝川大橋の下を通り、さらに河口へと向かいました。河口だか入り江だか分かりにくい所に出ました。そこが嘉手納漁港でした。ここであれば、台風などの時でも船は安全だななどと思い、白い砂浜の海岸が多い沖縄の中でもこうした良港があることを再認識しました。ふと漁港の対岸を見ると食堂があるではありませんか、まだ歩き出して2時間も経っていないのですが、漁港の前の食堂、そして、お刺身定食のお品書き、ダメ!体はもう既にのれんをくぐっていました。お刺身定食1200円、沖縄のふつうのランチからしたら少々高めではありますが、十分にもとはとれるだろうと期待をして、迷わず注文をしました。来ました。沖縄の定食に付き物の小物たちの間にまさにそそり立つエベレスト。いろいろなお魚の刺身の盛り合わせ、テンコ盛りです。ミーバイもいる。イラブチャーも、もちろんマグロも、おお、そしておそらくあおりイカも、刺身だけでも腹がいっぱいになりそうな量ではあります。堪能しました。海の幸を。満足、満足、今度は液体エネルギーを摂りがてら、魚食いに来ようと誓ったのでした。

● 砂漠に水、人にはうっちん茶。
暑さに負けない元気な体になり、一路、再びの東シナ海を目指して歩き出しました。オリーブ色の河面はいつしか、コバルトブルーの色と混じり、気がつくとあの真っ青な海に覆われていました。海との再会です。海を右手にして南下を続けます。容赦なく陽は照りつけます。街角に立つ自販機の前で、うっちん茶のボトルを一気飲みしました。まるで砂漠に水をやっているような感じです。たまらず目の前に現れたショッピングモール街に飛び込みました。んークール。冷房が効いた店内は、まさに天国、ロビーの椅子に腰掛けもうろうとした意識をしゃきっとさせたのでした。最近、沖縄では町の郊外にこうしたモール街が出来ています。本土にもあるような大型店舗がいくつか集まってモール街を形成しています。神奈川などと同じように大型店舗ができれば、地元の商店街などはさびれます。確かに沖縄などでも商店街や市場の中にあるお店が虫食いのようにつぶれている光景も目にします。でも、一方で新しい職種のお店だとか、地元オリジナルの食べ物や製品を売るお店も作られています。ある意味、神奈川なんかよりもよっぽど新陳代謝が活発なのです。やはり小国にも関わらず激しかった歴史の流れの中をしたたかに生き抜いてきた琉球王国の血統は十分に引き継げられているなと感じるのでした。再び58号線へと出てきました。    つづく
 ● 魚天国  ● 嘉手納基地  ● うっちん茶
やはり沖縄は、海に囲まれた国だ。市場の鮮魚コーナーに行けば、そこには色とりどりの南国風味の魚たちがぎょうさいる。代表のものをいくつか紹介しよう。ミーバイ、和名はハタ。汁ものや煮付け、刺身、魚汁などに使われ、沖縄の三大高級魚の一つと言われる。イラブチャー、和名はブダイ。白身で淡泊、味噌和えの刺身が人気。アバサー、和名はハリセンボン。味噌仕立てのアバサー汁は有名 嘉手納飛行場は、嘉手納町、沖縄市、北谷町、那覇市の4つの自治体にまたがり設置されている。沖縄の米軍にとって最重要基地の1つである。当基地には、アメリカ空軍第18航空団と海軍の沖縄艦隊基地/嘉手納海軍航空基地の両軍が駐屯をしている。空軍のF−15戦闘機部隊、AWACS部隊、空中給油部隊、海軍のP−3C対潜哨戒部隊などが当基地を中心として作戦展開している。 沖縄には、ふつうに出されるジャスミン茶(さんぴん茶)をはじめ、ヤマトにはないお茶が続々ある。うっちん茶、ショウガ科の多年草であるウコンの成分が含まれている。クルクミンという成分が、肝機能強化、抗ガン作用、活性酸素除去作用、抗菌作用etcに効くと言われている。ゴーヤ茶、言わずと知れたゴーヤのお茶、ビタミンCだけでなく、モモルデシチンやチャランチンなる成分が血糖値を下げる作用をするそうだ。グァバ茶、生活習慣病や老化防止に効く。ギンネム茶、健腎茶、健康茶、月桃茶などなど、あげればきりがない。どれも体によいのだ。


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【第3日目−2】
● 夏の日射しはますます強く、まさに基地は陽炎。
58号線に出ました。ここもまた、海岸縁まで基地なので、迂回をするしかありません。絶え間なく車が流れる58号線を南下していきました。もう完全に梅雨は開けたようで、空は青く、時折、白い雲が悠々と流れていきます。沖縄の空は、眺めていてあきません。真っ青な空をバックにして、いろいろな形をした雲が、高い山がなく島ということもあるとは思いますが、やけに近い距離の所を次々と移動していきます。その様は、まるで特撮の映画シーンを観ているようです。もう50年、100年、いや、ずーっと、いつでも空を眺めれば、こうしたシーンが観られたんだろうなと思います。地上の人間たちがバカなことをしている間もずーっと。左手には、嘉手納基地の広大な土地が広がっています。まあ、広大と言っても木やら丘やらで目隠しがされているので中を見ることはできません。でも、いつまでも切れることなくまたまた金網は続きます。国道を挟んで右側には、燃料タンクが芝生の小山の中に隠されています。国道を10分ほど歩いた所に何やら像が立っていました。一体誰かと思って、名を見れば、「野国総管」とあります。彼は17世紀のはじめ、進貢船の役人だったそうで、沖縄にはじめてサツマイモの苗を中国から持ち帰った人だったそうです。後にこのサツマイモが琉球から薩摩に伝わり、あの青木昆陽が日本全国にサツマイモを広げたわけです。ちなみにサツマイモの原産国は中南米です。唐辛子と同じで、彼らも世界1周をして日本のたどりついたわけです。

● 琉球の空は沖縄の空にあらず。
突然、左手の丘の上に大きな飛行機が現れました。KC10Aでしょうか、はたまた輸送のためのチャーター機でしょうか。離陸時の飛行機は、その巨大な体を重力の呪縛から解き放すために大きなエネルギーを使います。そのエネルギーは音にも変わるのです。雷鳴が轟くような音を残して、数機の巨大機は、雲の向こうへと消えていきました。時折襲ってくる爆音を背にして、旅人は前進します。ようやっと右側の金網が切れている所までたどりつきました。海の方に向かって右折をします。曲がり角のバス停には砂辺とありました。右手に嘉手納基地の燃料タンクの金網を見ながら、海へ向かってと歩きます。ポツポツと住宅が建っていますが、空き地があっちこっちにあります。看板に防衛施設庁管理用地とあります。なんだろうなと思って、先に進みます。最近建てられたような家は、窓ガラスが2重になっています。暑いから冷房を逃がさないためなんだろうかと旅人は安易に考えます。数時間ぶりではありますが、再び東シナ海の広い海へと出会いました。見慣れた南国の海岸ではあります。海岸をさらに南下します。低い防波堤の向こうに何か碑が見えます。近づいて碑文を読んでみました。巨大なバーナーを一気に点火をして吹かしたような大音響があたり包みました。一体何事かと音の方を凝視しました。雲の切れ目から、矢のようなジェット戦闘機が、空を切り開くように急上昇し旋回していきます。立て続けに3機の戦闘機が雲の切れ目から姿を現しました。輸送機とは違う、大地を切り裂くような爆音と飛行機雲を残し、コックピットの操縦士が見えるような至近距離をF15イーグルは稲妻のように駆け上がっていきました。2重窓の理由が分かった瞬間でした。

● 観覧車が回っているのか、目が回っているのか。
碑文には、「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」と題字が刻まれていました。砂辺の商店街を抜け、さらに南下を続けます。浜川漁港に突き当たり、左折、再び58号線が見えてきたので、その手前を右折し、国道の1本海側の道を行くことにしました。今、沖縄では新しい生活情報発信地として注目を浴びている北谷地区に入ってきたようです。前方奥にシンボルの観覧車が見えてきました。暑さにはだいぶなれてきたのですが、今度は、足が少々痛んできました。どうも両足の小指の先に重心がかかっているようで、鈍い痛みが伝わってきます。遠くを眺めて、ひたすら歩きます。58号線の東側には、まだまだ違う基地が続いていました。どうにもいつまでたっても基地の金網から逃れることができません。車で通っているときは、それでも数分で通り抜けてしまうのですが、歩きだとそうはいきません。金網は同行者の1人か、はたまた迷路の壁か、絶えず視界に金網が入っていると自分が金網の外にいるのか内にいるのかわからなくなります。この数日間は、どうみても金網と海とのせまい隙間に沖縄の人たちの街があるわけで、沖縄の住んでいる人たちの方が金網の中に押し込められているような印象を受けてしまいます。さらに空は、怪鳥の領域です。三方を囲まれているような息苦しさを感じるのは私だけなのでしょうか。足がもつれだした頃、美浜のスカイマックス60(観覧車)の前に到達しました。まだ、陽は高く、ここで日和わけにはいかないと勇気を持って一歩を踏み出しました。             つづく
 ● 米軍上陸  ● 爆音訴訟  ● キャンプ桑江 
1945年4月1日、沖縄本島の中部西海岸一帯に10万発の艦砲を打ち込んだ後、8時30分上陸を開始した。日本軍の抵抗はなく、無血での上陸であった。午前中には、北(読谷)、中(嘉手納)飛行場を占領し、4月3日には、東海岸に達した。この時点で、沖縄本島は、南北に分断された。この間、沖縄守備軍は、首里司令部を中心に宜野湾から浦添の丘陵地帯に作った陣地壕に立てこもり持久戦に備えていた。 北谷町砂辺地区は、防衛施設局によれば、第三種騒音地域にあたるとされている。戦闘機の離発着時は、絶えず90ホン以上の騒音にさらされているという。嘉手納基地周辺の騒音に悩む住民たちが、1982年、国を相手どって、米軍機の夜間飛行差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こした。94年2月に判決が降りたが、国の騒音に対する損害賠償は認めたものの、飛行差し止めについては、国の支配が及ばないとして、司法判断を避けた。 海兵隊は、キャンプ・レスターと呼ぶ。かつてここには、沖縄全軍とその家族に奉仕をするための沖縄地域医療センターがあった。しかし、陸軍が縮小された結果、1977年に海兵隊のキャンプ・バトラーの管理下に入る。キャンプとは別に、海軍の管理下にある病院施設があり、「沖縄海軍病院」と呼ばれている。キャンプの南側には、家族住宅と単身者宿舎がある。


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【第3日目−3】
● 歯医者の看板は目立つのです。
沖縄の街は看板天国です。街のいたる所にシュールでファンキーな看板が存在します。看板に書いてある文面も最高なのですが、飾り付けも見逃せません。様々あるお店の看板の中でも今回私が注目したのは、歯医者さんの看板です。魚やら犬やら、子どもたちを意識しているのでしょうか、そのデコレートぶりに感心しました。自分で作っているのか、そうしたデコレーションを作っている職人がいるのか興味津々です。スカイマックス60のあるここらの地域は、美浜と言います。今、美浜には、たくさんの大型店が出店しています。美浜に来たとき私がたちよるお店は、一番海側に近いところにある地球雑貨というお店です。那覇の国際通りにもあるのですが、美浜のお店が一番大きく、いろいろな雑貨が揃っているので、見るだけでも楽しい場所です。そこの2階にあるアジア風多国籍料理のレストランも気に入っています。そして、それらのお店の奥には、人工ビーチではありますが、サンセットビーチという鎌倉風に言いますと海水浴場があります。何で、鎌倉ではビーチと言わないのだろう。でも、今回は歩くことが目的ですから、そんな美浜の最新ショップには脇目もふらず先へ急ぎました。

● 漂流者は漂流船に吸い寄せられる。
ヨロヨロしながらも前進します。かなり足が痛んできました。軽やかにジョギングをする年輩の方、ああ、あなたの足を貸してください。白比川を渡ります。右手には北谷ドームが見えています。ここらへんの一帯は、フリーマーケットがあったり、アメリカンポップ調のブティックがあったりとインディーズの臭いがプンプンとします。インディーズと言えば、モンゴル800です。彼らの活動拠点というか生活拠点がこの先の浦添あたりと聞きました。琉球愛歌が頭の中でリフレインします。この旅で琉球の心を少しでも知ることができれば、うれしいのです。なんてともかく泳ぐように先へ進みます。右手の海の方を見ると帆船のようなものが漂着しているではありませんか、まさに漂流者のように帆船に近づきます。どうやらここは、最近できた人工ビーチの安良波公園のようです。人工ビーチとはいえ、白い砂、青い海に違いはありません。海岸縁に立つ東屋にへたり込みました。南の方を仰木見ました。これから走破するであろう中部の丘陵地帯が迫ってきています。明日には到達できるだろうか不安になります。もう夕方も近いのに、夕方というか夕方になるはずの時間も近いのに日射しは一向に弱る気配を見せません。そばにあった水道にかけより、頭から水を浴びました。本当は、そのまま海に入っていきたかったのですが、それをやると今日はそれで終わってしまうので、鉄の心でそれは回避しました。

● 故郷は金網の中。
水を浴びて意識がシャキッとしたところで、本日の最終コーナーへと突入しました。安良波公園をあとにして、海岸線の道路を南へと向かいます。ようやっと日射しも少しやわらかくなり、太陽と海との距離も少し近くなったような気がします。普天間川を渡り、宜野湾市の伊佐という地区に入りました。今日の目標地点がここでした。本日のマーキング地点であるバス停に向かうため、普天間川の先の運河のような所を斜めに入り、58号線へと出ました。道路の向こうにはまたまたあの金網が続いています。キャンプ瑞慶覧の金網です。このあたりは、昔、伊佐浜という浜でした。その昔、この浜は別れの浜と呼ばれていました。見通しがよく那覇港を出た船が内地に向かうとき、目の前の海を通り、遥か残波岬まで見送れることから、那覇港に見送りに行けなかった者が、この浜で太鼓をたたき、歌を歌い、ノロシを上げ見送ったからです。今は埋め立てられその浜はありません。なぜ、そんな言われのある浜を埋め立てなくてはいけなかったのか、その理由の1つを知るためには、伊佐浜の土地闘争を知らなくていけません。この伊佐浜のうしろにあった伊佐浜の村は、沖縄一の美田と歌われた風光明媚で沖縄の米どころとして有名な場所でした。でも、今はその場所はありません。ありませんと言うよりは近づけません。なぜかと言えば、その伊佐浜の村があった所は、目の前にある金網の中にあるからです。            つづく
 ● ハンビー飛行場  ● MONGOL800  ● キャンプ瑞慶覧 
米軍の元飛行場であった北谷のハンビー飛行場は、沖縄が日本に復帰すると同時に返還が合意された。今では、その場所に大型スーパーやら家具店、書店、レストランなどが並ぶ。この地域で働いている人の数は、1500人以上いると言われている。基地があった頃、基地で雇われていた日本人の100倍以上の人数である。基地の返還でこれだけの雇用が発生した。でも、返還が決定してからこうなるまでに25年以上の時間を要した。返還が決定したからと言って、次の年から何かが直ぐできるわけではない。 モンパチなどと略して言う場合もある。1998年7月に結成された、地元浦添高校出身の3人組、サポートのメンバーも入れると4人なのかよくわからん。ファーストアルバムの、「GO ON AS YOU ARE」が県内で大ブレークする。その噂は、本土にも飛び火をし、全国区の知名度になる。2001年9月16日、セカンドアルバム、「MESSAGE」が発売される。人気の秘密は、シンプルなメロディーに共感できる素直な歌詞にあるとある。現在メンバーの2人が大学に在学中のため、学業の合間をぬって、適度に奮闘中だそうだ。私の場合、何と言っても彼らの詞に吸い寄せられた。聞いてない人は一度聞いてみてね。損はないと思うよ。 海兵隊では、キャンプ・フォスターと呼ぶ。日本の敗戦後、米陸軍司令部、米高等弁務官府のおかれた基地であった。占領時代の権力の中枢的な場所であった。復帰後、1975年からは、海兵隊基地キャンプ・バトラー司令部がこの基地に移ってきたので、引き続き沖縄米軍の中心的な場所となっている。キャンプ・バトラー司令官(第V海兵遠征軍司令官と兼務)が、現在の沖縄米軍のトップともいえる四軍調整官で、対外的に沖縄米軍を代表する者となっている。


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【第3日目−4】
 銃剣とブルドーザー
1950年に朝鮮半島で戦争が起きます。その前の年には中国で社会主義革命が起きていました。沖縄めぐるこうした環境変化は、防共のかなめとして沖縄を考えていたアメリカにとって、その軍事力のさらなる強化へとつながります。1953年には、土地収用令なる法律をつくり、沖縄の土地を基地として利用しようとします。1955年3月2日、早朝、アメリカ軍は、伊佐浜村民たちが座り込みで反対する中、強制的に約3万坪の土地を占拠していきます。つづいて、7月11日には、さらに10万坪の土地の収用を通告してきます。村民たちは、土地を取られたら生活の糧である農業ができなくなってしまいます。「土地取り上げは、死刑宣告」などというノボリ立て抵抗しました。しかし、7月19日早朝、アメリカ軍は、伊佐浜部落の周辺にバリケードをめぐらせ、外部に連絡や、外部からの助けができないようにした上で、銃で村民を脅し、ブルドーザーやクレーンで家屋、田畑を潰して、土地を取り上げました。住む家を失った人々は、強制的に荒れ地に移住をさせられ、長い間、貧困に苦しめられました。そのように当時、アメリカ軍によって奪われた土地が、今も返されることなく、今もって、私の目の前にある金網の向こうにあるのです。

【第4日目−1】
● パイプラインは波乗りだけではない。

昨日終点とした伊佐のバス停前からリスタートしました。今日は、普天間基地の下を通る、基地燃料を輸送するためのパイプが埋設してある上に道がある「パイプライン」という道を歩き南下をし、嘉数の丘、浦添城趾を経て、首里までの道の走破を目指します。今日は、おそらく前半戦最大の長丁場になると思われます。手や顔は、日に焼け、ヒリヒリする段階はとうに通り過ぎ、もう1枚皮ができたような感じになり、前日まではまるで、鉛の玉を引きずりながら歩いていたようだった足もだいぶ鍛えられ、鋼とまでは言わないまでもプラスティックの下敷きぐらいにはなってきました。今日もよい天気、3歩あるいたらいつものように滝のような汗が流れます。しかしながら、毎晩のちょっと濃度の濃い高エネルギーの水を摂取している成果が出て、体重は一向に減らずです。キャンプ瑞慶覧の金網からはさよならをして、パイプラインに入りました。58号線の一本東側、普天間基地がある台地の下をパイプラインは通っています。58号線から少々高台を通っているので、右手に東シナ海が見えています。ここは市でいうと宜野湾市になります。市の真ん中を普天間基地に取られてしまっているので、宜野湾市もまたドーナツ型の街になってしまっています。


● 外人住宅は暑いらしい。
宜野湾市のここら辺を大山と言います。海岸線から普天間基地の直下までの傾斜のある土地に家が立ち並ぶ風情は、神戸や横浜のような感じでもあります。しかし、それはあくまでもイメージで、海と基地の間のドーナツ、いや、ドーナツの皮ぐらいの土地に家々がひしめき合っているというのが現状です。この一帯、特に58号線沿いには、基地から放出されたアメリカン家具や輸入家具のお店、最近では、若者向けのTシャツのお店が立ち並んでいます。中でも中古家具をリメイクした家具屋さんには、アーリーアメリカン調の家具なども多数あり、少々気持ちが揺らぐこと受け合いです。左手の基地の上空を頻繁に軍事用ヘリコプターが行き来をしています。よく墜ちるヘリコプターです。こんな町中に墜ちたらひとたまりもないなあなどと思いながら、先に進みました。パイプライン沿いの住宅をよく見ると特徴的な住宅が多々あります。外人住宅と呼ばれているやつです。庭付きで一戸建て、コンクリートで作られた平屋、シンプルな作りではありますが、天井が高く広々とした外人住宅は、その昔、基地で働く、軍人や軍属に貸すために作られた家です。基地関係者に貸すと軍が家賃を出してくれるので、安定した家賃収入が入ります。まあ、それも多くの場合、日本が出している思いやり予算などがグルグルと回ってきているらしいのですが。最近は、そうした中古になった外人住宅、若者たちに人気があって、空きを待っている人もいるそうです。でも沖縄の気候には不向きなので、あくまでもそのデザイン性などに人気があるそうです。   つづく
 ● 琉球政府  ● 沖縄土地闘争  ● 普天間基地 
琉球政府は、アメリカ統治時代の沖縄における住民側の中央政府でした。1952年4月1日から1972年5月15日まで存在をしました。サンフランシスコ講和条約によって、半永久的に沖縄の統治権を手に入れたアメリカは、自らが民主国家を標榜している建前上、沖縄にも民主的な機関を作る必要に迫られ、琉球政府を作った、形式的には、アメリカの政治形態を模したが、それはあくまでも形式のみであり、法令により、「ただし、米国民政府の布告、命令および指令に従う」という、米国民政府の下請け機関に過ぎなかった。 アメリカ軍は、沖縄占領と同時に旧日本軍の基地をそのままアメリカ軍の基地として組み込んだ。その後も占領していることよいことに、極東における軍事情勢が変化をする度に新たな土地を基地へと編入していった。中でも伊江島、伊佐浜に代表されるような戦後の米軍による銃剣とブルトーザーによる強制収用は、住民の生活権を侵害する行為となり、島をあげての反対の闘争に火がついた。「土地を守る四原則」を掲げ、島民たちは闘った。@一括払い反対。A適正補償。B損害賠償。C新規接収反対。 普天間飛行場は、第1海兵航空団(司令部:キャンプ瑞慶覧)のヘリコプター部隊である第36海兵航空群が司令部を置いて、使用している。キャンプ瑞慶覧のすぐ南に位置していて、国道58号線と国道330号線にはさまれた場所にある。北東に走る2800m×46mの滑走路を1本有する。普天間基地所属の航空機による事故は、嘉手納基地におけるそれよりも多く、都市の中心に位置する基地だけあって、その危険度はこのうえない。


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【第4日目−2】
● ポトス?!本当にお前はポトス?
少し高台となっている住宅街の中にある道をひたすら南へ向かって歩き進めます。時折、普天間基地からだとお思います。攻撃型ヘリを含めたヘリコプター編隊が爆音をとどろかせて頭上を横切ります。パイプラインから見上げるに緑の崖が見えているだけで、その上に基地があるなどとは想像できません。崖をよじ登れば、そこにはジュラシックパークではなく、ミニタリーパークがあるわけです。それにしても住宅街と基地を分けている崖に生い茂る植物の成長のよいこと、私の家にあるポトスなんぞは、野生で生息し、その葉の大きさはまるでうちわのようです。普天間基地の第1ゲートをすぎ、しばらく行くと左手に大山貝塚なる史蹟があるところに出ました。ン十年前、考古学研究会に所属をしていた私としては、興味がそそられ、思わず左折をし急な坂道登ってみました。坂を登り切った所に遺跡はありました。沖縄では、ここのように珊瑚礁段丘の下あたりに貝塚がよくあります。その昔、水の便がよく、目の前の海で食料が確保しやすいこうした環境の所に古代の人は住んだのだと思います。貝塚を後にして、パイプラインを真志喜に向かって進みます。

● ヘビーな森。
しばらく行くと真志喜の公民館の前に出ました。公民館の前の路地の入り口に、「森の川公園」という案内板が出ていたので、何とはなしに立ち寄ってみることにしました。森の川という泉の回りに作られた公園でした。泉の直ぐ裏には、ウタキがあり。静寂とハブの領域でした。ここ森の川の泉は、昔、琉球がまだ統一されていない頃、中部の有力者であった中山王の察度氏の親が出会った場所とされています。彼は、1372年、琉球で初めて中国明朝と外交を開いた人物として有名です。森の川公園を後にして、パイプラインには戻らず、そのまま、大謝名の方に向かい、ダラダラ坂を降りていきました。少し行った所にしゃれた建物があったので、近づいてみると宜野湾市の市立博物館でした。せっかくなので、立ち寄ることにして、30分ほど見学をさせてもらいました。何を説明するにも、沖縄戦と米軍のことは、説明せざるを得ない沖縄の博物館です。思わず目がいってしまった資料。言わずと知れた、沖縄戦のときの激戦地区であった宜野湾市、住民の犠牲率を見てみるに、上陸した米軍が早くから占領した地区である新城12%、喜友名13%、日本軍の主陣地のあった地区の嘉数48%、佐真下47%、我如古49%となっていました。この数字を見ていろいろ思ったわけです。ただ、どちらにしても住民に犠牲者が出ることに変わりはないのが戦争です。

● サンマフライ定食
博物館を出て、そのまま道を下っていくと大謝名へと出ました。県道34号線を横切りました。朝から行動しているせいか、無性に腹が減ってきました。足の方は今のところ順調です。家の近くのディスカウントショップで買ったウォーキング用の靴はマメもできずに大地にフィットしています。1日の楽しみの一つに飯があります。今回の昼食は、歩いていないと気がつかない街の大衆食堂で食べようと決めていました。通りには面していない路地裏にある食堂を探しだし入るようにしてきました。沖縄の場合、こんな所にはないだろうなと思う、路地裏のふつうの住宅街の一画に近所のお母さんがやっているような食堂があったりします。我慢ができなくなり、細い路地を曲がってみました。するとまったくもってタイミングよく、目の前に食堂があるではありませんか。本日のおすすめ昼の定食、「サンマフライ定食650円」と看板に書いてあります。直観的にこれだ、これしかないと決め、のれんをくぐりました。席につくなり、昼の定食と叫んでいました。立て続け、冷えたサンピン茶を飲み干し、定食を待ちます。来ましたサンマフライ定食が、沖縄ならではのふっくらした感じのフライ、その他サイドには、沖縄の伝統的なメニュー、小そば、昆布イリチィー、ドゥルワカシーなど、おおっデザートに小さなぜんざいがついている。しめて650円。一気に食い倒しました。これまたサービスの手作りアイスコーヒーを飲み、この後に待ちかまえる本日最大の難所ごえのエネルギーを蓄えたのでした。          つづく
 ● ウタキ(御嶽)  ● 大衆食堂  ● 嘉数高地 
ムラの精神的な中心地がウタキである。ウタキはそのほとんどが、村の背後にある森の中にある。その昔、先祖たちが住んでいた森、それがウタキだ。ウタキはムラ人にとっての安全で水のある心の故郷であると言えよう。ウタキに宿る神々は、ムラの先祖神はもちろん、海の神、水の神、土地の神、屋敷の神、穀物の神などと様々な神々がおられる。ウタキといってもそこに祀られているというか置かれている物は、石などの自然物であったり、古い木であったりする。高い精神性を感じる。 沖縄の大衆食堂はおもしろすぎる。メニューの中心はやはり、沖縄家庭料理である。のれんをくぐり、目の前に張ってあるメニューを読んでみる。「ゴーヤーチャンプル」「豆腐チャンプルー」「フーチャンプルー」「沖縄そば」「テビチ」「ラフテー」、ここらへんまでは何とかイメージができる。「おかず定食」「中味汁」「チャンポン」、おかずって一体何のおかず?!中味って、何かの中身じゃないの?チャンポンって、長崎チャンポンのこと?みんな食べればわかります。 1945年4月1日、本島中部に上陸をしたアメリカ軍は、破竹の勢いで南下をした。4月8日、アメリカ軍は、待ちかまえていた日本軍とここ嘉数の高地周辺で激突する。4月19日、アメリカ軍は、30台の戦車を繰り出して、嘉数高地を攻略しようとする。しかし、日本軍の肉弾攻撃の前に戦車22台を破壊され、以降16日間、この地に釘付けにされる。しかし、結果24日、高地は完全にアメリカ軍に占拠され、日本軍は多大な損害を出し敗北する。犠牲者の中には、戦闘に巻き込まれた多数の住民がいた。


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【第4日目−3】
● 完全復活!
エネルギー充填よし、水分補充よし、午前中の消耗がうそのように回復し、長い午後が始まりました。まあ、この時点では、長いとは思っていなかったのですが。ゆっくりと谷の底に向かって降りていく形です。嘉数の丘と現在普天間基地のある海岸段丘の間には、比屋良川という川が流れています。この川が、その浸食により、細いV字の谷を作っています。その谷の向こうに小高い丘が形成されているのです。川の手前に小学校がありました。小学校の裏手には、大謝名メーヌカーと呼ばれる湧水地がありました。回りを自然石できっちりと囲まれ、その昔から市民の大切な水場として大事にされてきたことがしのばれます。沖縄にはこうした水場があちらこちらにあり、昔から、そこに住む人たちのとても重要な生活用水として、大切に守られてきているそうです。谷の底の部分である大謝名橋より嘉数高地を仰ぎ見ます。崖の頂きに現在建設されている展望台が見え隠れしています。谷をはさんで、現在の普天間基地側にアメリカ軍陣地、丘周辺には、日本軍がトンネル、トーチカによる要塞陣地を構築していたそうです。

● 読谷、北谷、嘉数と歩いてきたわけだ。
橋からは一気に登りとなりました。おそらく標高的にはさほど高いとは思いません。でも、海面に近いところからの急峻な登りだったので、かなり息があがりました。アメリカ軍もこちらからの崖をよじ登っての攻撃は避けたと思います。もう少し西側に回り込み、川の切れ込みが浅い方面から攻撃をしかけたのではないかと思います。今は、こうした急峻な斜面沿いにもモダンな住宅が並び、海を見下ろすことができる高台の住宅街は、海からの風が吹き抜ける爽やかな街角となっています。九十九折りの路地を登り切った所に嘉数高台公園があります。正面の階段上には、地球をあしらった展望台があります。私はいつも正面の階段を登らず、わきについているスロープをそのまま登ります。北の方の木々の間からは、普天間基地の滑走路が見え隠れしています。頂上に着き、そのまま展望台へと登りました。まず北の方を見ました。遠くには、読谷の残波岬が見ます。うっすらとハンザタワーも見えています。そのちょうど下あたりの海岸から歩き出したわけです。荷物もなく手ぶらに近い状態でただ、歩いただけなのに3日間かかりました。左手に見えている東シナ海は、どこまでも蒼く、広々とした大海です。

● 軍隊は国民を守ってはくれず。
少し視線を東に転じます。目の前に流れているはずの比屋良川の切れ込みは、よく見ないとわかりません。樹木の間に細長く亀裂が走っています。その向こうは、台地の上に広がった普天間基地飛行場とその回りを囲むように立ち並んでいる宜野湾の町々です。普天間基地のさらに東側の手前は、住民の戦没者率が、47、49、44%であった、佐真下、我如古、志真志の各町々です。そのままターンをして、南の方を見ます。まず、目の前に飛び込んでくるのは、嘉数の丘の直ぐ背後にあるこれまた急峻な、屏風のような岩崖が西に向かってつらなる浦添城趾(前田高地)です。ここから直線距離で、2kmもないと思います。このラインを突破されるとこの高地の東側に見え隠れしている日本軍の本部のあった首里の丘陵地帯までは、直線距離で残すところ7、8kmとなります。これから歩く方角を見定めから展望台を降りました。展望台の直ぐわきには、いくつかの慰霊塔が立ち並んでいます。浦添城趾方面を正面にして、左から、「嘉数の塔」「京都の塔」「青丘の塔」です。こうした慰霊塔は沖縄のあちらこちらにあります。今後のことも考え、どういった文面が書かれているか、読んでおくとよいと思います。慰霊塔の北側の斜面には、日本軍のトーチカの跡が残っています。思った以上に上等な鉄筋コンクリートを使って作ってあるトーチカの表面には、多くの銃痕が残されています。展望台を下り、浦添城趾を目指しました。   つづく
 ● 察度王の羽衣伝説  ● 援護法  ● 為朝伝説 
羽衣伝説ゆかりの地が「森の川」である。浦添に住む奥間大親という貧しい農民が天女と結ばれ、一男一女をもうけた。母親は、子どもが幼少のころ、なくした羽衣を見つけて天上へと帰っていった。二人の子どもの一人、男の子は成人して謝名と言った。謝名は、勝連按司の娘と結婚したが、貧しかった。しかし、家の周りには金塊がころがっていた。その価値を妻によって教えられた謝名は、ムラのためにその金塊を使った。結果、村民から慕われた謝名は察度王となった。 沖縄戦における沖縄県民犠牲者の補償問題は、当時の軍人、軍属等を対象にした戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法・1952年制定)によって処理をされてきた。もともと、軍人・軍属・国家公務員等、国と何らかの契約が存在する者を対象としているこの法律を地上戦闘のあった沖縄などにも適用させ、対処してきたわけだが、住民の戦闘参加者という定義をどこまで認めるのかという問題があり、軍民一体のかけ声により戦闘に巻き込まれた一般住民たちへの補償は今だ解決していない。また、援護法の適用を受けるために事実と証言が食い違うなどの問題も起きている。 浦添の按司、尊敦は乱れていた12世紀の琉球を治めた王として、後に舜天王となったとされているが、舜天王が源為朝の子であるという作られた伝説がある。保元の乱で敗れ、伊豆大島に流刑となっていた源為朝は、潮流に乗り大島を脱出した。流れついたのが、琉球の今帰仁であった。運を天にまかせてたどり着いた港なので、その地を運天港と名付けた。そこから南部へ移り住み、大里按司の妹と結ばれ、男児をもうけた。故国にもどるため妻子を残して為朝は旅立った。その男児が舜天王といわれる。この話しは、17世紀の島津進攻を正当化するために、源氏出身の島津氏が意図的に流した話しのようだ。


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【第4日目−4】
● 街のオアシス

嘉数の展望台のまわりは、住宅が立ち並んでいて、その間を路地が縦横に走っています。そんな中に入る込みますと、まるで迷路の中に迷い込んだみたいになってしまいます。各家の庭には、南国特有の草花が咲き乱れ、ああ綺麗な花だと道をはずれ見入ると元の場所に戻れなくなります。遠くに見えている浦添城趾の丘を目指して、そんな街の中を縦横に歩いていきました。もう完全に夏の日となっている太陽は、容赦なく照りつけます。砂漠を歩く行商隊のようにオアシスを探します。私にとってのオアシスは、マチヤグァなど呼ばれる沖縄風万屋とでも言いましょうか、とりあえず何でも売っているんです。ここに入り、水分やらちょっとした甘物などを購入し、だいたい外に備え付けてあるベンチに腰掛け、一息つくわけです。こうしたお店が、住宅街の中にもポツンとあったりするので、大助かりです。早くも休憩をし、さらに先に進みます。目の前にある浦添城趾には登らなくてはいけないのに下ってばかりです。ようやっと嘉数の街を抜け、国道330号線の歩道橋のところに出ました。歩道橋を渡り、当山の街に入ったようです。ちょうど下校時間なのでしょうか。小学生たちがおしゃべりをしながら帰っていきます。

● 直登、直登、また直登。
目の前の前田高地に登らなくてはいけないのに、道はドンドン下ります。石畳の急坂に出くわしました。嘉数の丘と同じように、ここ浦添城趾の手前にも牧港川が流れています。やはり深い谷を作っていました。急な石畳の坂を降りていくと川と交差をします。交差場所には、アーチ型をした小さな石橋がかけられていました。古くからの街道として使われていたことを思わせます。ここから一気の登りです。急登を息をあえぎながら登っていきます。石畳が切れ、最近できたようなアスファルトの道に変わりました。森のトンネルだったような所から容赦のない照り返しがあるきつい道を黙々と歩きます。右手に浦添城趾の整備現場が見えてきました。浦添城は、王宮が首里に移されるまでの12世紀からの約200年、舜天、英祖、察度の3王統の居城とされたそうです。段々と前田高地の崖直下が迫ってきました。振り返ると1時間半ほど前にいた嘉数の展望台が、小さくマメ粒のように見えています。前田高地に登るには、迂回をする道もあるのですが、ここは直登することに決め、崖の真下付近まで歩みよりました。するとそこは、公営なのでしょうか崖下は、墓地となっていました。ちょうど行き会わせた墓地内で作業をしていた人に断り、真っ直ぐ崖下に向かってコンクリートの坂を登っていきました。墓地を抜けた広場に北海道の方々が中心となって建てられた前田高地平和の碑がありました。その直ぐ裏手の崖には、陣地壕でしょうか、ポッカリと暗い穴が広がっていました。

● いつ来てもザワザワと風は流れる。
碑の直ぐ裏に細いコンクリートの階段がついています。この階段を上り詰め、丘陵の尾根に出て、右へと折れます。思った以上に前田高地の東の突端部はやせて、両サイドが切り立った尾根づたいです。ほどなく浦添城趾公園の広場へと出ました。広場の東はじにあるベンチに座り、北と南を見渡しました。北には、さきほどよりさらに小さくなった嘉数の丘が見えます。南は、幾重にも重なった丘陵の奥に首里城の赤瓦が見え隠れしています。広場の奥まったところには、いくつかの碑が建っています。嘉数、前田めぐる中部戦線での日本軍の戦死者は約6万4000名、米軍の死傷者は2万6000名、日本軍は主力部隊の約8割を中部戦線での戦いで失ったとされています。しかし、ここでの最大の犠牲者は、近隣に住んでいた住民であったと言えるでしょう。例えば、前田高地南側背後にある前田の部落での住民の戦死率は58.8%、1戸全滅の家は、201戸中59戸のも及んだと言われています。いつ来ても風が吹き抜けている浦添城趾、この風は、琉球の王国時代、いや先史の時代からずーっと吹き続けている風だと思うのです。地上の風景がどんなに変化をしていても風はいつの日も変わらずに。ザワザワしている森を後にして、浦添城趾公園の道をゆっくりと降りて行きます。公園の南側は、浦添市の仲間、前田の地区です。住宅街の中にこんもりと茂った森がありました。そんな場所は、必ずウタキか泉です。どんなに都会化が進んでもこうした場所をきちんと残してある普遍的な価値をしっかりと理解しているはずの土地であると思うのです。 つづく
 ● 当山の石畳  ● 前田高地  ● 沖縄の民家 
琉球王国時代、王府は首里城と各地方の役所を結ぶ道を整備した。川には橋をかけ、坂は石畳にした。この道は、首里から宜野湾までつづき、普天間街道と呼ばれた。当山あたりは、馬もころぶほどの急坂で、「馬ドゥケーラン」と呼ばれた。この道は、17世紀後半に作られたものとされている。当山の石畳の他、首里金城の石畳、宜野湾野嵩の石畳など、沖縄各地に石畳が残されている。 第32軍(沖縄守備軍)は、浦添城趾を中心に防衛陣地を築き、第62師団(石部隊・1師団は一般的に1万5千人ぐらい))を配置した。それに対して米軍は、1945年4月26日、歩兵師団などを投入し前田高地への攻撃を開始。戦車部隊を先頭にして、歩兵部隊を進軍させてきた。壕内に立てこもる日本軍に対して、火炎放射や黄燐弾などを撃ち込み撃破していった。5月6日まで続いた戦闘により、両軍の損害は甚大であった。 街を歩いていると、最近の沖縄の住宅は、やはり、コンクリートの打ちっ放しの家が多い。台風などの影響だろうか、がっしりとした感じのコンクリートの家は、沖縄には適した素材なのであろう。これだけ需要があると建築坪単価も本土のそれよりはだいぶ安いそうだ。しかし、沖縄の風情を強烈に感じさせるのは、赤瓦の純沖縄風民家であろう。よい感じで古びた民家を街の辻でひょいと見ることがある。現代にも残してもらいたい建築である。


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【第4日目−5】
● 山を越え、谷を越え。
浦添小学校、浦添中学校の脇を通って安波茶の十字路に出ました。本日の最終目的地である首里城は、もう目の鼻の先にあるはずです。はずと言うのは、行く手には、丘あり谷ありなので、地図の上での話しとなってしまうわけです。首里城へ向かうコースはいくつかあるのですが、2つの丘を越えた足は、もう、かなりの悲鳴をあげています。歩いていて段々わかってきたのですが、登りより下りの方が足に負担がかかります。私の場合、両足の小指に加重がかかるみたいで、小指の先にマメが出来てしまいました。バンドエイドで応急処置をしました。そんなこともあるので、日和って最短の直線コースを行くことにしました。安波茶の十字路から経塚通りへと入りました。首里も近くなったせいか住宅お店の数も増えてきました。そう言えば、那覇の街など沖縄の街は、風水によって作られていると言うから、どんな特徴があるのかなと思っていたところの風水の研究所。かなり一般化しているらしいとすぐさま理解をしてしまいました。坂を下り、小湾側を渡ると再び登りです。北の方から真っ直ぐに首里城へ向かおうとした場合、このようにその周りにあるアップダウンをいくつも越えなくてはいけません。本島中南部の地形的な特徴が分かってきました。河川が、東西方向に伸びている関係で、その両岸は、崖状態になっていると思われます。ちゃんと調べたわけではありませんが、おそらく河川沿いは、断層になっていると思います。東西にクラックが走っているということは、造島時にこの地域全体に横ズレの応力がかかったに違いありません。形成はともかく、北からのアプローチはたいへんで、西、東からのアプローチの方が少しは楽なのではないかという話しです。

● スイマディチャヌアタイカカイガヤー?
街の中を歩くときの楽しみの1つは、先日も書きましたが、お店の看板です。特にネーミングの妙がさえています。このセンスはどこから来るものなのでしょうか。琉球言葉からくるネーミングも多く、琉球言葉の持つ雰囲気は、とても文学的です。そんな琉球言葉も戦前中は、皇民化教育等の影響で使用することが禁止されたり、戦後も東京語をしゃべることが奨励される中、一時はだいぶ衰退したと聞きます。しかし、自分たちの言葉を失うことは、文化を失うことだと思うのです。しかるに沖縄の人たちは、今に至るまで、きちんと自分たちの言葉を守ってきています。地元のラジオなどを聞いていると琉球言葉で会話をしている番組があったり、前述したように街の中にある看板にも多くのウチナー言葉が使われています。足の痛みを誤魔化すため、街の風景をキョロキョロと見渡しながら挙動不審の一団は、首里城を目指します。登って降りて、経塚の十字路へと出てきました。ここを越せば那覇市に突入です。十字路を突き切り、首里大名町へと入りました。ここいらの道は、なぜかとても狭くて、車がすれ違うと人が歩く場所がなくなってしまいます。何でこんなに狭いのかと思い、道行く人に尋ねれば、「区画整理をしなかったからね」と簡単に答えが出たのでした。また小さな丘を登って下れば、平良のバス停にと到達しました。県道241号線を右に曲がり程なく行くと首里儀保の交差点へと出てきたのです。ヘロヘロ状態の旅人を見て、今どきの女子高生は、けげんな顔をしてすれ違うのでありました。

● 首里城到着、でも、終点は始点。
時刻はもう既に5時をまわり、思い起こせば今日のスタート地点は、大山パイプライン、本日は本当に山坂ありました。精も根も尽き果てそうな私の前にそびえる、最後の坂、儀保の交差点を真っ直ぐに横切り、目指すは本日の最終目標地点、首里の丘。マンションの脇の道を直登していきます。一歩を出す足がまるで鉛の玉を引きずっているようです。途中、首里の味噌屋さんがあります。その直ぐ先には、安谷川のウタキが左側にあります。一気に高台へと上がってきました。丘のまわりは上昇気流ができるのでしょうか、風雲急を告げるような積乱雲が、風に流され、かなりのはやさで右から左へと流されていきます。坂がフラットになり、細い路地から右に出たら、そこが今日の終点目標であった沖縄県立博物館でした。もう閉まっている博物館の門の前の石にへたりこみ、残ったサンピン茶を一気に飲み干し深く息を吸ったのでした。さあ、ここで、前半戦の行程が終わったわけです。今一度、コースを振り返ってみましょう。スタートは、読谷村の楚辺の浜でした。楚辺→トリイ通信施設→古堅→渡具知→嘉手納→砂辺→美浜→北谷→伊佐浜→大山→真志喜→大謝名→嘉数高台→当山→浦添城趾(前田)→安波茶→経塚→首里大名→首里平良→首里儀保→首里城公園。ということで前半の終点は首里城でした。参考までに沖縄戦当時のアメリカ軍の進攻状態を紹介しておきましょう。1945年4月1日、読谷村から北谷村にかかる中部西海岸地帯に上陸。4月2日、東海岸に到達。4月3日、読谷、嘉手納の両飛行場より小型飛行機発着開始。4月5日、渡具知に軍政府開設。大謝名−我如古−和宇慶線攻撃開始。4月8日〜23日、嘉数高地。4月26日〜5月6日、前田高地。5月18日、首里西部・安里52高地占領。5月21日、首里石嶺。5月31日、首里城占領。何かを感じていただければ幸いです。さて、後半は、南部の旅となります。首里城をスタートラインにして、再び南部への踏破に出発します。こうご期待を。   つづく
 ● ウチナーグチ  ● 方言札  ● 沖縄の風水 
チユーウガナビラ、ハジミティーヤーサイ、メンソーレー、チユーヤアチサイビーン、ウンジュナーウジャヌーヤミセーガ、ガンジューヤミセーミ、クレーヌーヤイビーガ、ナラーチクィミソーリ、ウサガミソーレ、クワッチーサビラ、イッペーマーサン、クワッチーサビタン、チュファーラ、グブリーサビラ、ユクィミソーレー、マタンメンソーリヨー、アレーイッペーカンベーサン、アミガフィギサーヤィビーニャー、クチワザワィウクチェータミアラン、クトウバャクメーキティチカリヨー、ウジミーヤマーリカンカイアガ、イュクワーシーガイチュン、ヘェークナーヤーカイケーラ、ナークーテンヤシクナイビラニ、クリヤカヤシクォーナイビラン。 沖縄における本来の共通語は、ウチナーグチ(沖縄の言葉)だ。しかし、現在は、テレビやラジオなどが普及したせいで、かなりの人が、日本国の標準語であるヤマトグチ(大和の言葉)を使っている。でも、実際は、ウチナーグチとヤマトグチが入り混じったウチナーヤマトグチなるものが主流だそうだ。今でこそこうして、自由に両方の言葉を使える時代となっているわけだが、その昔、日本に吸収された明治時代には、標準語を話させるために政府は、学校での琉球語の使用を禁止し、話した者には、罰として首から板で作った、「方言札」なるものを下げさせられたそうだ。この仕置きは、昭和40年代?まで続いたらしい。 沖縄の言葉で、フンシーという風水は、15世紀以降、中国より伝えられたと言われている。本来、風水は、信仰的なものより、地勢学、地理学的な要素が強いかったと思われる。その土地、土地の特性を生かした家づくりや街づくりの一つの指針であったと思われる。そうしたものと屋敷や土地の神様を信仰するための決まりであった民間的な信仰とが混ざったものが今日の沖縄の風水のようだ。その混ざった例を紹介すれば、神様に家を守ってもらうために決まった建て方をする。土地を清め、床の間は、東か南を向け太陽がよく入る明るい部屋にする。便所や台所は、家の後ろ側となる北西に小さく造るなどがある。こうした決まりは、住む人の健康にも関わるとされている。


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【第5日目−1】
● 南へ、そして南へ。
さあ、今日からは南部への踏破スタートです。宿を出て、昨日の終点であった首里城公園へと向かいます。左手に崇元寺を見て、安里を通り、右手には、古きよき那覇を残す栄町市場を臨みながら、首里城へと登城するのでした。都ホテルの先からは、右に曲がり、寒川通りを登ります。ダラダラ坂もいつしか、急な登りとなり、一気に標高が上がります。観音堂前を通り過ぎる頃には、振り返り那覇の街を見るとかなりの眼下に広がっています。スタスタと登りつめれば、首里高校の校門の前へと出てきました。首里の町並みは、やはり城下町の風情をたぶんに残しています。迷路のような細い路地、丁寧に引き詰められた石畳など。横から吹く抜ける強い風にあおられました。切り通しのような細い路地を見るとうっそうと茂った森の向こうに那覇の町並みが見えます。ひときわ強い風が絶え間なく吹き抜けています。風の源が気になったので、少し坂を降りてみます。ザワザワと風がささやくその向こうに、一中健児の塔がありました。慰霊の日も間近な平日の午前中、石碑の前にたたずむ初老の夫妻がいました。もと来た道へ戻り、玉陵の前を通り、守礼の門の前に立ちます。今日も多くの観光客が、記念撮影をしています。梅雨のあけた琉球の空は、底抜けに青く、朱色の門が際立ちます。いつもであれば門をくぐり、首里城へと詣るのですが、今日の目的は違います。

● 城夏にして草青みたり。
歓会門の手前を県立芸大の方へと階段を降りていきます。階段を降りきったところの左と右に頑強なコンクリートで固められたトーチカの跡があります。コンクリートの壁をよく見てみると銃痕があちらこちらに残っています。ここは入り口ではありませんが、ここ首里城の地下には、日本の第32軍司令部壕があったのです。総延長約1000mにも及ぶ本司令部は、1945年5月末には、アメリカ軍の攻撃の前に降伏やむを得ない状況になっていました。しかし、32軍は降伏せず、南部への撤退持久戦への道を選びます。ここで終戦をむかえていれば、多くの沖縄住民が助かったはずです。5月27日、32軍は摩文仁へと撤退していき、5月29日には、瓦礫と化した首里城の城壁に星条旗が翻りました。守礼の門を右手にして、首里城の南側へと回り込みました。首里城の南側は、米軍の艦砲のちょうど裏側になった関係で、いくつかの首里ならではのものが残りました。その中の1つに金城の石畳があります。首里の丘に吹き上げてくる風を受けながら、石畳を降りていきます。途中、いつも迎えてくれる猫が、寄り合い所にいます。記念の写真を1枚撮らしてもらい、今日はまだまだ先が長いので、先を急ぎます。首里の丘から一気に下り、谷の底には、いつものように川が流れています。安里川です。川を渡り、松城中のわきを通って繁多川方面へと向かいます。今降りてきたのと同じくらいまた登ります。アスファルトの道は、むせ返るような照り返しがあり、息も出来ません。

 宇宙船「地球号」
丘を登り切ったところは、霊園でした。真っ青な空と様々な形の墓碑は、よい所と言う雰囲気を醸し出しています。そう言えば、沖縄の霊園というかお墓がある場所は、前にも書いたように気持ちのよい場所が多いのです。ヤマトの場合、墓地と言えば、どちらかと言うと少々薄暗いお寺の裏山のようなイメージがあります。やはりこれは、死後というか死というものへの考え方の違いがあるのでしょうか。そんな明るいイメージの墓地を通り過ぎた所に識名園、別名シチナヌウドゥンの入り口がありました。ちょうどお昼になってしまったので、直ぐ目の前にあった大衆食堂で煮付け定食をかき込み、余裕を持って見学をさせてもらうことにしました。この識名園は、琉球王家最大の別邸で、首里の崎山にあった御茶屋御殿(東苑)に対し、首里城の南にあるので、「南苑」とも呼ばれていました。中国風あずまややアーチ橋など、池のまわりを歩きながら四季の移り変わりを楽しめるよう設計された廻遊式庭園です。18世紀の終わり頃より、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されたそうです。沖縄戦で壊滅的な被害を受けましたが、戦後修復され、2000年にはユネスコの世界遺産に登録をされています。中に入るとそこは、小さな宇宙でした。池の回りをめぐるように作られた遊歩道を歩み進めると、泉あり、橋あり、琉球石灰岩を積んだ小径あり、そして様々な種類の草木、自然の造形美をよく考えた調和的な空間に息をのみました。庭園のちょうど南側にある勧耕台より見る南部の景色は、島国琉球にも関わらず、地平線が曲線を描き、海を見ることはできません。眼下には、幾重にも重なり合った丘陵が奥へ奥へと連なっていました。一番奥にある喜屋武半島まで、西に東にと蛇行を繰り返しながら、歩いていくわけです。陽のあるうちに少しでもと思い、識名園をあとにしました。          つづく
 ● 崇元寺  ● 首里城  ● 学徒隊 
中国の皇帝から、琉球の国王であることを承認してもらうことを冊封といった。冊封のため中国から派遣された使節団のことを冊封使といい、団長の正使、副団長の副使を筆頭に総勢約400人ほどの使節団であった。一行は、来琉すると約半年間は滞在し、その間、定期的に行われる祝宴への参加、持参の貿易品の買い取りなどを琉球政府にさせた。来琉した冊封使たちの最初のセレモニーは、崇元寺で行われる先王の葬儀(諭祭)であった。現王朝の正当性を確認するための儀式であった。 中山の王宮が、いつ頃浦添から首里に遷されたかはっきりしたことはわかっていない。しかし、首里城外苑の造成を記念して立てられた、「安国山樹華木之記碑」が1427年のものなので、15世紀のはじめには、築城がされたものと思われる。尚巴志(1422〜1439)の時代に首里城は中山の王宮として整備され、その後、約450年の間、琉球王国の都として栄えた。「しよりもり、けらへて、けらへたる、きょらや、かみ、しもの世そろえる、くすく、またまもり、けらへて、けらへたる、きよら」(おもろさうし) 沖縄戦時、満14歳の中学生まで陸軍二等兵として、戦闘に参加させられた。本土における専門学校生徒以上の参加であった、「学徒出陣」とは、まったく違う。戦況の悪化に伴い、男女中学生は、陣地構築作業にかり出され、米軍上陸近しともなると、男子生徒は、戦闘訓練や通信のための教育、女子生徒は、救急看護などの速成教育を受けさせられた。生徒たちは、「鉄血勤皇隊」「学徒看護隊」として、各部隊や野戦病院に配置された。生徒の戦場への動員は、法的根拠はなく、生徒の志願という形がとられ、保護者の承認を建前としていた。しかし、実際は半ば強制的なものであった。学徒隊の戦死者は、男子873名(49.98%)、女子359名(61.79%)であった。


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【第5日目−2】
● 十字路は交通の要所。

識名園を出て、園沿いの細道を南へと向かって歩き続けました。ここの場所はだいぶ高い位置にあるようで、家々の切れ間より、これから向かう南部の地形がよく見渡せました。サトウキビ畑とこんもりと茂った森、住宅街、高速道路などが、まるでパッチワークの模様のように広がっています。知らぬ間にだいぶ登っていたんだなと思いながら、前から吹いてくる心地よい風に体を預けるようにして、急坂を下っていきました。ほどなく下ると国道329号線へと出てきました。ここで、南風原方面へと向かうため左折をしました。地方都市の街道沿いといった風情の中、十字路を渡るとコンクリートの橋がありました。名前を見ると、「一日橋」とあります。東西に流れる川、十字に交わる主要道路、丘と丘の間の広い場所はそんな交通の要所となっています。今でもひっきりなしに車が行き交っています。沖縄戦当時は、こうした交通の要所は、米軍にとってのかっこうの標的であったそうです。南部方面へ逃げて行くためには、こうした十字路、橋をいくつも通り越していかなくてはいけません。蟻の行列を踏みつぶすようなことだったのかもしれません。誰が歩いているのかなど関係がない。それが戦争です。

● さとうきび畑のフィールドオブドリーム
途中、兼城、十字路手前を本部方面へと右折しました。国道から一歩裏手に入った所は、サトウキビ畑がつづく丘陵地帯でした。十分に南中した太陽は、頭を真上からジリジリと焦がします。時折、サトウキビ畑の上を涼しい風が吹き抜けます。畑の路地を曲がると中学生でしょうか、野球のユニフォーム姿の男子がバットを肩にかついで現れました。ここらは、中部のような高い丘陵はありませんが、低い丘がいくつも連なっています。南風原の町を一望できる本部の小高い丘に登ったとき、その前方にこんもりとした森が視界に入ってきました。南風原文化センターの南側に位置するその森は、黄金森と言います。ここには、沖縄戦当時、那覇の空襲によって焼け出された沖縄陸軍病院が移設されていました。黄金森の中腹に本部壕、第一外科壕、第二外科壕、向かいの丘に第三外科壕が掘られ、20本以上の横穴壕が縦横に貫通し、収容人員4000名だったそうです。師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒約200名もここに配置されていました。黄金森を目指して、喜屋武の街を横切りました。今、織物で有名な南風原の街は、歩いているとあちらこちらから機織り器の音が聞こえてきます。また、各家の庭では、パッションフルーツなど様々な南国のフルーツが植えられ、甘い匂いを漂わせいます。

● 森は語らず。
目の前に森があるのですが、その入り口が分からず迷ってしまいました。迷ったときのいったり来たりが、案外、足にこたえます。目標に向かって確実に最短距離で近づいているときは、気持ちがそちらに向いているせいか、足の痛みはあまり感じないのですが、遠回りをしているのではないかと思ったとたん足がきしみ出します。細い家の路地を抜け、バイパス道路のような道を歩き、森の中に向かって1本の道が入っている所に行き当たりました。農道のようなその細い道を森に向かって入っていきました。少し丘を登り、森にかかった所に南風原陸軍病院壕跡の石碑が立っていました。碑の裏手の崖には崩れた壕のような物が見えています。一歩入った森の中は、思った以上に明るく爽やか感じのする森でした。何種類もの鳥たちが、目の前を私の存在など恐れずに行き交いさえずり合っています。その鳴き声が、まるでジャングルの中にこだまするBGMのようですらあります。厚く茂った木々の葉の間から夏の強い日射しがこぼれて地面にユラユラとした濃淡をつけています。誰かがつい今しがたおまいりに来たのかもしれません。まだ、新しい花が石碑の前に活かされていました。振り返り、街一帯を臨みます。そこには、静かで居心地のよさそうな小さな街が広がっていました。丘下り、照屋を通過し山川橋を目指しました。     つづく
 ● 南風原陸軍病院  ● 南国フルーツ  ● 南風原花織 
正式名称は、第32軍沖縄陸軍病院である。那覇にあったが、十・十空襲後、南風原に移動した。南風原国民学校の校舎を利用して、内科・外科・伝染病科を持つ、軍医・看護婦・衛生兵など450名、そして、ひめゆり学徒隊239名の戦時医療体制施設であった。米軍上陸後は、外科患者が多くなり、第一外科・第二外科・第三外科に再編され、1945年3月末の空襲によって校舎が焼けたため、黄金森に掘られた壕に移動した。病院と言っても設備などの環境は劣悪で、米軍上陸後の壕内は、阿鼻叫喚の世界となった。5月20日のさらなる南部撤退時には、歩けない重傷患者は青酸カリによって処理されたとされる。 沖縄のフルーツと言えば、マンゴー、パイナップル、ドラゴンフルーツ、パッションフルーツ、パパイヤー、島バナナなどと言うようにたーくさんある。そんな中でも今回の旅の間、よく目にしたのが、パッションフルーツとドラゴンフルーツ、バナナだった。パッションフルーツは、棚になった木から、丸いボールみたいな実をぶるさげていた。ドラゴンフルーツは、サボテンの大きな木のような感じで、その木の先に実をつけている。言わずと知れたバナナは、ちょっと小さめだが、甘さは最高だ。バナナの木の回りは台風対策で段々と盛り土をされ、こんもりしている。家にもバナナの木があるのだけれど実をつけない。 沖縄には数々の織物がある。その織り方は、たて糸とよこ糸を一本おきに交差させながら織っていく平織と、たて糸かよこ糸のどちらか一方を浮かせて織る紋織がある。古くは、一般庶民は、平織を着用し、上流階級は、紋織を着用したという。芭蕉布、琉球絣、久米島絣、宮古上布、八重山上布は、平織。首里花織、読谷山花織、与那国花織などは紋織に属する。南風原花織は、紋織のタイプである。南風原は、もともと、琉球絣の本場であったので、南風原花織そのものはなかなか知られなかったが最近は、その確かな技法が注目され脚光を浴びつつある。作風は、首里や那覇の流れをくむものである。昔は、綿の荒糸を使い織られたそうだ。上品な着物であったので、喪服などに使用されたそうである。南風原町は今、「かすりの里」として紹介されている。生産者は30名ほどと言われている。


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【第5日目−3】
● 何が大事で、何が不要か。
南風原照屋の交差点からはすに入って山川橋を目指しました。この山川橋も二つの道の交差点となっています。南部への撤退時には、軍も民間人も通らなければならない場所でした。当然のように米軍の艦砲のマトになった地点です。ここを通過するのは、たいへん困難で、ここもやはり、死の十字路と呼ばれた場所の一つでした。近道をしようと思って入った農道のようなところでしたが、前から今どきの中学生たちが歩いてきます。その格好は、神奈川、東京の中学生と何も変わりません。男の子は、腰はきにしたズボン、女の子はミニスカといういでたちです。情報とはおもしろいもので、真実がきちんと伝わるかと思えば伝わらず、嘘の情報がどうせ伝わらないと思っていればまことしやかに伝わる。東京や神奈川で流行っているファッションなどは、テレビや雑誌の情報によって、あっと言う間に全国区になる。そう言う意味で、今や日本の国内にそうした時間差はかぎりなく無いように思われます。でもその逆はどうでしょうか。沖縄に来ると日米安全保障条約のおかしさや有事立法の無意味さなどがよく分かります。これらの法律は何も沖縄だけの関係をしている法律ではありません。日本全体にかかっている法律で、神奈川、東京の市民にとっても重要で無関係ではいられないものです。しかし、沖縄から発せられる情報の多くは、本土に住む人たちの日常的な問題とされてはいません。こうしたアンバランスはどうして起きるのでしょうか。様々な問題が絡んでいるとは思いますが、要は、こうした多くの情報を主体的な意識で収集し、自分の足や目や耳で確かめるという意識が国民の側にあるかどうかということなのかなと涸れぎみの頭の中でぼんやり考えました。

● サウナ効果!
那覇空港自動車道の高架の下を通り、山川橋で出ました。周辺に橋がいくつかあるので、どれが山川橋なのか確認をしようと各橋を見て回りました。でも、山川橋という看板はあるのですが、肝心な橋がありません。橋はどこにいってしまったのでしょうか。山川という場所にあった橋だから、山川橋と呼んでいたのでしょうか。どれが山川橋だかわからないままに先を急ぎました。東風平宣次から県道48号線に入り玉城村方面へと向かいました。ここら辺は、低地というか広い場所で、遠くに目標にする物もなく、緩やか起伏のある道をひたすら歩きました。那覇から車で来れば、そう時間のかからない場所であるとは思います。通勤者を対象としたマンションやアパートなどもだいぶ建てられています。そんな住宅街の傍らには、サトウキビ畑やバナナ畑、ハウス栽培の畑などが隣接しています。午後もこの時間になってくるとちょうど中学生や高校生の下校時間とぶつかります。バス停など下車した高校生たちと行き会うと歩く方向が同じだったりします。追いつ追われつみたいな状況になったりするのですが、あることに気がつきました。沖縄の高校生、特に女子高生は、思った以上によく歩くということです。よく沖縄では、暑いからみんなあんまり歩かないよと言われ、ヤマトの人はよく歩くね。何て言われたりするので、歩かないウチナンチュー、ましてや、今時の女子高生、カッタルクテヤダー何て絶対歩くはずないと思っていたのです。でも、実際は、バス停からかなり離れた所まで、一生懸命歩いています。この暑さです。これはある意味、ダイエットなんでしょうか。サウナ効果何て言ってられないほど汗は流れ続けています。水分が無くなると死ぬと思い。いつものとおり自販機で水分補給をしながら歩きます。立て続けにペットボトルを2本、飲み干ししまいました。飲みたいときに水がたらふく飲めるしあわせさよ。

● 私は女優
部分的の再び南風原神里を通り、大里村に入りました。南部の村々は、盆地のような地形の所に広がっています。標高差は、あまりないはずです。当然、海抜だってかなり低いはずです。でも、もやに煙った農村の原風景がそこにあります。田園風景の一画にあるその街ならではのお店やおそらく地場の産業と思われる看板とか興味を引くものが多々あります。例えば、大里村の稲嶺あたりを歩いていたときに左手にあった看板には、「山羊(  )売ります」とありました。山羊( )売る?かっこ中に何を入れるんだ?なぞなぞじゃないんだからと思わず考えてしまいました。たぶん、肉などの部分が入るような気がします。でも、山羊を売るときって、部分、部分で売るのかな?1頭いくらではないのかしら?やっぱり、クイズだ。その先には、さらに衝撃的な看板が。一見、ふつうの商店です。でも、外のブロック塀には、塀いっぱいにプロ美顔とあります。どうやら化粧品屋さんのようです。入り口のガラス戸には大きく、生まれ変わる、「女優化粧品」と貼りだしてありました。興味がそそられる!このインパクトの強さ。きっとこの地域の女性たちは、みんな女優顔なんだ。一体女優顔って?!思わず、すれ違ったオバーの顔をマジマジと見てしまいました。失礼しました。歩きながら様々な空想というか妄想にふけりながら、思わずにやつく旅人、ついに暑さで・・・と見た人たちは思ったに違いありません。でも黙々と歩き続けます。今、私は南東に向かっていると思われます。陽はようやっと傾きだし、柔らかな日射しになってきました。

● ナイスバッティング!
目取真を通り、玉城村の船越へとたどりつきました。船越小学校では、小学生たちが野球の練習をしていました。メンバーの顔を見てみるに、上級生が下級生に教えている様子です。ちょうど僕らが小学生のころにやっていた野球の形態です。最近は、スポーツ何とかがあって、いわゆる大人の指導者がいる場合が多いと思います。そのこと自体は別に悪いことだとは思わないのですが、放課後、学校の校庭で、上級生と下級生がこうして野球をやる風景があってもよいと思います。その昔、沖縄の高校野球は、甲子園で1勝をあげることが悲願でした。今では、東京、神奈川のようなたくさんの高校がある都道府県を押しのけて、優勝や準優勝などをするほどの実力県となりました。せっかく出た甲子園の土を検疫法の関係で沖縄に持ち帰ることができなかった時代もありました。純粋に子どものころから自分たちで楽しむ術を知っているのかもしれません。それが実力の秘密でしょうか。小学校を過ぎ、そのまま進めば、左手の奥にアブチラガマ(糸数壕)があるのですが、今日は、右手に出て、前川を通り、本日の最終目標地である玉泉洞へと向かいました。船越側からはなだらかな登り、そして、前川側は玉泉洞までのなだらかな下りです。しかし、私の足は限界が近くなってきていました。左足のふくらはぎがヒクヒクとつりだしました。でも、目標の場所は目の前です。丘を登り切ったところからは、眼下に太平洋が夕日にキラキラとはえています。痛い足を引きずりながら、県道17号線へと出てきました。左折をしたら目の前が玉泉洞でした。だいぶきましたね。    つづく
 ● 大里村    ● 山羊  ● アブチラガマ(糸数壕) 
本島南部の中北部にある大里村は、面積12.35平方km、人口11,453人、沖縄には珍しく、海に面していない村である。年間の平均気温が22.3度の亜熱帯海洋性気候の温暖というか暑い所である。村の中心産業は、昔から農業で、特にサトウキビ栽培は、全耕地面積の58%を占める基幹作物となっている。しかし、近年は、果樹や野菜など、中でもインゲン、ニガウリ、オクラ、キャベツ、キュウリなどの生産が伸びている。 山羊のことを書かなくていけないでしょうね。沖縄には山羊が至る所にいる。山羊をどうするかって、それは食べるのだ。山羊を食べる習慣は、何も沖縄だけではなく、アジアのいろいろな所にある。お祝いやセレモニーの時に、山羊を1頭つぶして、みんなで食べる。山羊を食べるということはとても神聖なことなのだ。山羊料理の本随を堪能したいなら、山羊の刺身を食べることをおすすめる。夏バテなど一発で消し飛ぶこと受け合い。 元はと言えば、糸数城趾に陣地を建設した日本軍が、住民の避難壕であった本壕を住民を追いだして洞窟陣地にしたものであった。しかし、中部での戦闘が開始されると、その加勢のために日本軍は、倉庫だけを残して中部に移動していった。そして、1945年4月24日には、南風原の陸軍病院の糸数分室として使用されることとなる。かつぎ込まれた負傷兵の数は、1000人近くとなり、壕内は地獄のような有様であった。そんな病院壕も米軍の南下により、5月25日頃には、解散となった。その際に独歩できない重傷患者などは、青酸カリなどによって処置されたという。


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【第6日目−1】
● ゴーヤはイボイボを見ればわかるのだ。
今日は、玉泉洞から西へ向かい、そして、東へとジグザグに南下をして、摩文仁の丘を目指します。真っ直ぐに南下をすれば、もっと早く、南の岬に着くのに何でこんなにジグザグに南下をしていったんだろう。確かに、早く岬に着いたところで、希望があったわけではないのだけれど、いつかはどんづまってしまうわけなのだから、1つには、少しでも長く生きていたいということと、もう1つは、このコース先々には、撤退していった日本軍の陣地があるということ、最後の最後まで、庶民たちは日本軍が助けてくれると思ったんだろうなきっと。玉泉洞のバス停の前を具志頭村新城の方へぬけます。新城売店前の道を海の方に向かって行くとそこには、第24師団の野戦病院の分室があったガラビ壕があります。こんもりとした小さな森がある丘の下には必ず壕があります。そして、その1つ1つの壕には必ず悲話があります。いつもは、西にあるヌヌマチガマから東にあるガラビガマへと通り抜けるのですが、今回は、歩くことを優先をし、遠くから祈っただけで先に進みました。ここら辺りは、やはりサトウキビ畑を中心とする畑が多く点在しています。通りかかった軽トラの荷台には、朝採ったと思われるゴーヤがかごいっぱいに積まれていました。採りたてのゴーヤは直ぐに分かります。あの1つ1つのイボイボが尖って見えるのです。見るからに生きがいいという感じです。前方に平でストンと北側が落ちた台地のような所が見えてきました。当面の目標地である東風平町の八重瀬嶽です。畑仕事に行く途中でしょうか、オバーが前を横切りました。


● 獅子は動かないけれど景色は動く。
沖縄の小中学校には正門によくスローガンが掲げてあります。ちょうど前を通った新城小学校では、体育館で何やら行事が行われているらしく大勢の人たちの歓声に包まれていました。子どもやお父さん、お母さん、オバー、オジーたちがふつうに集える週末の行事。東風平富盛の集落に入りました。街の真ん中辺を北に上がったところの丘の上に石彫の大獅子があります。獅子は、南にある八重瀬嶽の方を見据えています。風水によると八重瀬嶽の方角は、火縁の相があるといわれ、火から村を守るために立てられたこの獅子は、県内最大で最古の「ヒーゲーシ(火返し)」獅子です。石彫りの獅子の表面をよく見てみるとあちらこちらに表面の仕上げ加減とは、明らかに不調和なへこみが存在します。沖縄戦のときに受けた弾丸の跡です。八重瀬嶽には、日本軍の最終陣地が作られ、八重瀬嶽と与座岳のラインは、最後の防衛ラインとなりました。南下をしてきた米軍は、ここ獅子の前から日本軍陣地方向をうかがったのでした。火を追い返すはずの獅子の方から、火炎放射器をはじめとする多量の火器を使った米軍が攻めて来たのでした。そんな光景を見続けてきた獅子は、一体何を思っているのでしょうか。戦後50年以上経ち、当時焼け野原で見通しのよかったこの丘も今は回りをうっそうとした森に囲まれ、獅子も木のゆりかごのような静かな空間に身をゆだねています。聞こえてくるのは、風の音と森のざわめきと蝉の声だけです。

● 山は山。
獅子を跡にして目の前にある八重瀬嶽の中腹まで登ってみました。今、そこは、八重瀬公園として、公園になっています。この八重瀬嶽の中腹には、第24師団山部隊の第一野戦病院がおかれていました。200名ほどの要員で運営されていました。ここには、県立第二高等女学校生徒(白梅学徒)67名が動員されていました。当病院は、戦闘の最中の6月4日に解散しました。2つに分かれていた当壕の下の入り口跡が、八重瀬公園の駐車場脇にありました。駐車場から眺め見る首里の丘陵地帯から今まで歩いてきた南部の大地は、ただただ広く感じるのでした。公園を下り、サトウキビ畑が広がる八重瀬嶽の麓を回り込みながら高良を経由して、与座岳、八重瀬嶽ラインの登り越しを試みました。与座岳(標高168m)、八重瀬嶽(標高163m)、この2つの山の鞍部分を登って行きます。標高からしたら、たいして高い山ではないのですが、0mに近い所からの登りであるためか、かなり息が切れます。暑さ、それと昨日までに蓄積された足に溜まる蓄積疲労もジワジワときます。今、八重瀬嶽と与座岳の山頂付近は、とも米軍の施設から、自衛隊の施設へとなっています。山頂付近には、ドーム形のレーダーサイトが見えていました。息も絶え絶えとなりながら頂上付近のロータリーを糸満の新垣方面へと曲がりました。付近には、立派なゴルフ場がいくつも建設されています。ゴルフ場の脇の農道を新垣の街を目指して下り降りて行きました。  つづく
 ● 地名   ● シーサー  ● ガラビ壕
安慶名(あげな)、運玉原(うんたまばる)、親名(うぇんな)、宜次(ぎし)、喜屋武(きゃん)、喜如嘉(きじょか)、具志頭(ぐしちゃん)、国頭(くにがみ)、東風原(こちんだ)、勢理客(じっちゃく)、瑞慶覧(ずけらん)、崇元寺(そうげんじ)、沢岻(たくし)、谷茶(たんちゃ)、北谷(ちゃたん)、天妃(てんぴ)、大工泊(でーくどまい)、豊見城(とみぐすく)、当添(とうそえ)、仲村渠(なかんだかり)、今帰仁(なきじん)、南風原(はえばる)、平安座(へんざ)、辺土名(へんとな)、外間(ほかま)、摩文仁(まぶに)、山原(やんばる)、寄宮(よりみや)、饒平名(よへな)、魚(ゆう)、湧出(わじー)。まだまだ、たくさんありますが、今回はこのへんで。 シーサーは沖縄のいろいろな所で見ることができる。中でも屋根の上に置いてあるシーサーは一般的である。シーサーを漢字で書くと、「獅子」と書く。漢字から予想できるように、中国から伝わってきた風習であると思われる。琉球王朝に文化として取り入られてからは、民間の魔除けとして定着していく。古い村落の入り口や村の高台などには、守り神として石造りの獅子が置かれた。現在でも61の村に魔除けの獅子は残っている。一般の家の屋根の上に置かれるようになったのは、瓦を使われるようになった明治以降である。ちなみに狛犬は親戚である。 県立第二高女の4年生(16才〜17才)55人が補助看護婦として配属された第24師団第一野戦病院(八重瀬嶽中腹)の分院として、新城にあった地元民避難壕を避難民を追い出して、作られた。東西に二つのガマ出入り口があり、全長500m以上ある自然ガマであった。新城分院側をヌヌマチガマ、反対側をガラビ壕と呼ぶ。新城分院には、軍医1名、看護婦3名、衛生兵、女子学徒5名が派遣された。5月末、摩文仁への司令部撤退と同時に、「独歩患者は原隊に復帰、歩けない者は処置、学生は富盛に帰って指示を待て」と命令が出される。


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【第6日目−2】
● ああ、お金はあるのに・・・。

農業振興地域の農道をスタスタと新垣の街へと下って行きました。前方には、もう高い丘はありません。海まで続く緑の台地が広がっています。途中、農地を整備するためにブルトーザーを動かしている農家の方を見ました。いつも思うのですが、農家の人ってすごいなと思うのです。作物を作るのは当然としても、他にいろいろなことができる人が多いのです。ブルトーザーやショベルカーの運転、大工仕事、料理などというように。与座の台地から、くねくねとした坂を下り、住宅街をジグザグに南の方に向かって歩いていくと、新垣の公民館の前へと出てきました。そのまま、集落を横切り、県道250号線をわたり、真壁の方に向かってウージ畑の中を突き進みます。途中、お決まりの水分補給をしようと農道沿いにあった自販機でサンピン茶を買おうとしたところ、500円玉に対応していない自販機でありました。私は500円玉しか持っていなかったのであります。一度、水分を補給しようと決めただけに体は、完全な補給モードです。この後の喉の乾きは、想像を絶しました。水、水、水と思わず考えてしまう私でした。ウージ畑を抜け、県道7号線へと出た私は、自動車整備工場のちょっと先をわたり、今は糸満市の真壁の集落に入っていきました。

● 明日は慰霊の日
集落に入ってきたら、左手前方にこんもりとした小さな森があるのが気がつきました。回り近所からオジーやオバーたちが集まってきています。境内のようになった所には、簡易椅子が出され、多くの人が座っていました。中には、そうした群衆から少し離れた所に静かにたたずむご婦人もいらっしゃいます。茂った森の奥にブロックを積み上げ、その上に十字架を乗せた石碑が見えていました。ああ、ここが萬華之塔だったのか。やっと気がつきました。南部戦線における最後の激戦地となった当地域は、当時、避難民やら兵隊やらでたいへんな混雑だったそうです。1945年6月17日、米軍は、八重瀬嶽−与座岳のラインを突破して、喜屋武半島の台地へとその部隊を進攻させました。火炎放射器、爆雷、黄リン弾、ナパーム弾など後にベトナム戦争でも使われた、対洞窟戦用の新兵器を使い、日本軍の掃討を行いました。そんな掃討作戦の前に兵隊、民間人の区別はなかったわけです。実際、逃げ場を失った大勢の市民たちは、半島のあちらこちらにある洞窟に兵隊たちといっしょに混在せざるを得なかったのです。真壁村には、そうした避難民と兵隊が雑居していた千人壕という洞窟がありました。その中では、子どもがうるさいと始末されたりしたそうです。終戦直後、村に戻ってきた村人たちが、最初にやったことは、部落周辺に散乱している遺骨を拾うことでした。避難民をはじめとする様々な人の遺骨1万9千余柱の遺骨が納骨したのが、この萬華之塔なのです。

● 沖縄的なごみの時間
塔を出て、角を曲がったら、コンクリートの壁に茶処真壁ちなーと看板が貼られていました。お腹も空き、喉もカラカラ状態であった私は、看板についている矢印の方向に知らず知らずにうちに引き寄せられていったのです。いくつかの角を曲がり、とある朱瓦をのせた琉球民家の庭先へと出ました。ここが茶処でした。琉球石灰岩で作られた門をくぐり、昔ながらの琉球民家造りの家の中へと入りました。床の間のあります。黒光りした古い柱、冷房などは無いはずなのに、なぜかひんやりとしています。あの戦火の中、残った古い民家をのまま、茶処にしているのです。茶処とは言え、食べ物の方もしっかりとありました。ふつう、沖縄の場合、喫茶とか軽食とか言っても、チャンプルー類をはじめとする沖縄ランチは、しっかりと用意されています。暑いときは、やはりゴーヤだと思いゴーヤチャンプルーセットを頼みました。そして、喉の乾きを癒すため、庭先で作られているパッションフルーツのジュースをつけてもらいました。ちょうどお昼のピーク時は過ぎた頃だったので、手足を伸ばし、ゆっくりとくつろぎました。ゴーヤの苦みは、暑さにバテた体を活性化します。体が苦みを欲するようになったら、南国人になった証でしょうか。セット料理には、必ず付け合わせでついてくる小そばもまたいいわけです。沖縄そばのつゆや麺のシコシコ感は、一度食べるとくせになります。脳の記憶にしっかりと刻みこまれます。何日かすると必ず、そばが食いたいと思うようになります。そんな庶民の気持ちをくんで、定食には、多くの場合、小そばがついてくるのです。そして、食後のパッションフルーツジュースがこれまたベリーグッドでした。沖縄の太陽のエネルギーをそのまま、果実に封じ込めたような味が口いっぱいに広がります。暑さでヘロヘロになった体が、まるで、枯れ木に水をやり復活するかのような感じです。ああ、しあわせ。おっと、いつまでもダラダラしてはいられません。意を決して、また炎天下に飛び出しました。    つづく
 ● 慰霊の日   ● 萬華之塔  ● 沖縄すば
沖縄戦が終わったとされる6月23日を沖縄の慰霊の日としている。しかし、沖縄戦が終わった日とされる日には、いろいろな説がある。6月19日、6月21日、6月23日、7月2日、9月7日などというように。現実的な観点から言っても6月23日以降も戦闘は続いていたわけなので、簡単には終戦とは言えそうにはないと思われる。6月23日は、日本軍の司令官牛島中将が自決をした日(22日であったという話しもある)、6月19日は、日本軍司令官が指揮を打ちきった日、6月21日は、米ニミッツ提督の勝利宣言の日、7月2日は、米軍の作戦終了宣言の日、9月7日は、日本軍の残存部隊が降伏調印式をした日である。いずれにしても多くの住民犠牲者を出したにも関わらず、軍隊中心の話しであることにかわりはないように思われる。 真壁部落周辺の遺骨を収集して作られた慰霊の塔である。1950年代に建てられた納骨堂には、十字架が付けられたものが多かった。米兵たちがしゃれこうべを持ち出しいたずらをすることがあったので、クリスチャンの雰囲気を出しておけば被害が防げるであろうという思い付けられた。戦後南部住民が建てた慰霊の塔とその収骨数を紹介するとそれだけでも以下のようになる。魂魄の塔(米須35,000柱)、平和の塔(喜屋武10,000柱)、萬華之塔(真壁19,207柱、栄里之塔(真栄里12,000柱)、南北之塔(真栄平1,700柱)、守魂之塔(糸州305柱)、萬魂之塔(国吉4,000柱)、浄魂之塔(新垣10,000柱)、八重瀬の塔(富盛1,500柱)、魄粋之塔(10,150柱具志頭)。合計、103,862柱。 沖縄に行ったことのある人であれば、一度はこの沖縄そばを食べたことがるあると思う。蕎麦と言っても蕎麦粉で作っているわけではないので、正確にはそばと言うわけにはいかない。でも、特例でそばと称することを許されている。沖縄 そばの原料は、100%の小麦粉である。その小麦粉を灰汁を使ってのばし、打つ。そして、茹で上げた麺を冷水にはさらさず、油をふってそのまま自然放置し冷やす。まさに空冷的麺打ちである。その麺を豚骨、鶏ガラ、人参、玉葱などの野菜と水で煮込んだ出しスープをこした汁にさらにかつおの削り節を入れ、再びこし、最後に塩と醤油で味を整えたスープに入れ食す。


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【第6日目−3】
● 体験しないとわからん暑さ。
まだまだ陽は高く、日射しは容赦なく降り注いでいます。それでも休養をとったばかりなので、気合い十分に歩みを進めます。真壁の集落の真ん中あたりをそのままひめゆりの塔方向に向かってまっすぐ進んで行きますと右手に三和中学なる中学校が現れました。真壁なのに三和とは、どうしてなのかと思っていたところ、思いだしました。こう暑いと記憶も断片的にしか出てきません。真壁村は、今は糸満市に属していますが、戦後まもなくのころ、摩文仁村、真壁村、喜屋武村の各村は、戦争で人口の約4割を失い、独立した村を再建することができませんでした。そこで、3村を合併して三和村という新しい村を作ったのでした。中学校の前を左に曲がり、路地に入ったら、目の前の赤いワンピースを着た、小さい女の子が現れました。あまりにもふいに現れたものですからびっくりしてしまい、「こんにちは」と言う声もかすれてしまい、逆に彼女を不安がらせてしまったようです。後ろを振り向き向き、小走りにオバーの家へと駆け込んでいきました。きっと変な人に会ったと報告してるんだろうな。次の曲がり角を曲がったら、道路工事のおじさんたちが、縁石に座り一服をしていました。皆、赤銅色に焼けた二の腕をたくましく出し、でも、この暑さはどうにかならんのかねという感じで、汗だくの私を見て、同志のようにニヤリと笑うのでした。


● 時は流れど、記憶は残さねば。
町並みを抜け、またウージ畑に出ました。前方には、こんもりとした森が広がっています。北側から初めて見たひめゆりの塔のある第三外科壕跡、正面玄関から入ったときは、こんな平な所に壕があるのかと思ったのですが、北側から見るとこの一帯は、おそらく珊瑚礁段丘の一部なのでしょう。北側には、かなりの段差のある崖が川沿いに広がっていました。真壁の側から見ると少し小高い丘というかうねのように見えます。でも、きっと今は、植生が茂り森のようになっているので、小山のように見えていますが、そうした木がなければ原野の高まり程度にしか見えないと思います。身を隠すには、あまりにも貧弱な場所であったと言えるでしょう。ひめゆりの塔の場所に裏から入れるのかと思っていたら、そんなわけで川と崖があるので、裏から入ることはできませんでした。それどころか米須の集落に入る道がみつかりません。崖沿いの畑の中の道を並行に歩いていきました。東方向にだいぶ歩いた所に切り通しのような所を発見しやっと崖地帯を乗り越えることができました。切り通しを抜けるとそこは、米須の集落でした。こじんまりとした小さな集落の米須は、沖縄戦当時、215戸の家がありました。そのうち一家全滅した家が63戸、家族の過半数以上が亡くなった家が56戸、戦死者0だった家は、全体の13.5%に過ぎませんでした。静かでよい村です。国道331号線に出ました。右を見るとひめゆりの塔前の見慣れた風景がありました。今回は北側から見たので、国道を左に曲がりました。最終目的地の摩文仁の丘まであともう少しです。

● 海の上を歩いては行けない。
海に突き当たったら、それから先は道が無いわけで、右か左に行くしかないわけです。留まるかさらにとにかく移動するか、選択肢は、無いに等しいのです。私たちの場合、摩文仁が1つの目標地点であるので、自動的に左へと曲がることになります。国道の右側には、夏の陽の中でキラキラと光る太平洋が果てしなく続いています。国道沿いはやはり車の量が多いのです。排気ガスにむせながらも摩文仁の丘を目指します。足は限界を越えて痛みを感じなくなったせいか、むしろ足取りは軽く感じるのです。昼の休憩からまだ小1時間も経っていないはずなのに、体内の水分は止め止めなく奪われていきます。1つの集落を過ぎる度に水分補給をする有様です。キラキラと光る太平洋は、道に沿ってずっとついてきます。丘を目指して、道は左に曲がりながら緩やかに登ります。摩文仁の丘が見えてきました。国道を離れ、畑の中の道を通って、丘の西はじへと出ました。西側の丘の麓には、健児の塔があります。ようやっと終点が見えてきました。健児の塔を右手にして、平和祈念公園内へと足を踏み入れました。木々の間から見慣れた風景が見えてきました。平和の礎たちです。今日は、6月22日、慰霊の日の前日です。公園内では明日の県主催の慰霊祭の準備があわただしく行われています。故人たちとゆっくり話しがしたい人たちは、静かな慰霊祭前日に来られるのです。礎のあちらこちらに人の輪ができ、故人を含めたユンタクに花が咲いています。中には、当然一人で来られ、礎の前に座り、故人の名前をじっと見ている方もいらっしゃいます。お孫さんたちを連れた何世代にわたるご家族の方々も多く来られています。はしゃぐ孫たちに、「遊びは後、まずは挨拶」とぴしゃりと言っているオジーがいたりします。大事なことだなと思ったりするのです。

● 今は、夢も希望もある。
礎の中心を通っている太陽の道をまっすぐに、「平和の火」に向かって進みました。いよいよ今回の踏破の最終地点です。「平和の火」の回りには、多くの観光客が群、ガイドさんの話しを聞いています。子どもたちは、波紋を発信している池の水と戯れています。今日は本当によい天気です。崖下に広がる大海原は、どこまでも蒼く、空は澄んでいます。やっと着いたと思ったとたんヘタヘタとそばにあったベンチへとへたりこんでしまいました。人がたいへんな道のりを歩くときは、それはその先の夢だと希望だとかがあるから歩くのだと思うのです。絶望や犠牲のため歩くことほど苦しい歩みはないと思います。もうこれ以上先に進めないとこの崖の上に立ったときの気持ちはいったいどんなものであったのかなと、ぼんやり考えていました。さあ、明日は最終日なので、あと少しやり残したことをやりたいと思っています。    つづく
 ● ひめゆりの塔    ● 平和祈念公園   ● 平和の礎
南風原の陸軍病院を後にした、「ひめゆり学徒隊」は、東風平、高嶺、真壁を経由して、摩文仁村の伊原、糸州、山城にたどりついた。途中でばらばらになったため、到着をした日は別々であった。軍病院はすでに山城の洞窟の中に本部をかまえていた。病院部隊は、各病院棟ごとに周辺の洞窟に分散した。第一外科壕と第三外科壕は、伊原の県道(現国道)をはさんでとなりあった位置、第二外科壕は、1.5kmほど離れた糸州にあった。軍病院は、医療品、食料も底をつき、機能を失っていた。6月14日、山城本部壕が直撃弾を受ける。17日、伊原の第一外科壕直撃弾被弾。糸州の第二外科壕も米軍の馬乗り攻撃を受ける。6月18日、突然、学徒隊解散命令。 沖縄戦跡国定公園の中の中心的な場所とされる。公園のある摩文仁の丘に登っていくと、左右に各県の慰霊碑がたちならんでいる。そして、丘の頂上に最後にこの地で自決をした牛島司令官と長参謀長を祀った慰霊碑がある。この公園内には、他にも県立平和祈念資料館、平和祈念堂、平和の礎などの施設・モニュメントが設置されている。公園内にある各都道府県慰霊碑の中で、1県だけない県がある。それは沖縄県である。なぜ、ないのであろうか。沖縄県内の53市町村すべてに慰霊碑はある。 1995年6月、沖縄県は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業として、沖縄戦で戦没したすべての人々の氏名を刻んだ祈念碑、「平和の礎(いしじ)」を建設した。太平洋に向かって、中心となる6月23日の太陽子午線に合わせ作られた通路をはさみ、一番南端の平和の広場から扇形状に波紋が広がるような形で刻名碑がたちならんでいる。碑の基本的な理念は、@戦没者の追悼と平和祈念、A戦争体験の教訓と継承、B安らぎと学びの場となっている。序幕式時点での刻名者数は、合計で236,095名である。


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【第7日目−1】
● 6月23日「慰霊の日」
今日は、6月23日です。慰霊の日です。慰霊の日が6月23日であることに関しては、以前にも書きましたようにその日の設定には、いろいろと説があります。まあ、でも1年の中の一つの区切りの日ではありますので、私としてもこの日には、必ず行くつもりでいる場所がいくつかあります。本日午前中は、石川文洋さんの写真展を観て、その足で現地へ向かおうと思っています。開展と同時に会場を訪問するとちょうど文洋さんもいらしていて、今年のベトナムの話しなどで、久しぶりの再会で、貴重な話しをいくつも聞くことができました。ベトナムとの交流も毎年、様々な分野での交流が確実に進んでいまして、今年のプロジェクトの1つである、ベトナムからハンモックセットをフェアトレードする話しなどもとても喜んでくれました。1枚、1枚ゆっくりと写真を観させてもらいました。1枚、1枚の写真の中に、凝縮した時間というか歴史が込められています。彼の写真を観ることによって、沖縄やベトナムやアフガニスタンなどの点が線でつながりだします。時間はアッと言う間に過ぎ、お昼になりましたので、那覇に来たときは、いつも立ち寄るカフェでランチを食べ、本日の目的地へと向かいました。

● 加害の意識
本日の目的地は、まずは昨日到着した摩文仁の丘です。ちょうど今頃は県主催の慰霊祭が行われているころだと思います。今年も小泉さんは来ているそうです。彼の中では、有事関連法案と慰霊祭は別物なんだろうな、いや同一直線上なのかと国政に複雑な思いをめぐらせつつ、バスセンターへと向かいました。摩文仁の丘に行くためには、まず那覇から糸満行きのバスに乗り、糸満でバスを乗り換えて行きます。バスには年輩の方々が多く乗っていられます。一番多い組合せは、オバーとオジーと孫というようなグループのような気がします。那覇を出たバスは、昨日まで私たちが歩いた道をドンドン進みます。途中、糸満のバスセンターで摩文仁の丘行きの臨時バスに乗り換えました。この日は、多くの臨時バスが出ています。途中からも多くの年輩の方々が乗り込んできては、各慰霊碑があると思われるバス停で降りていかれます。やはり、今日は特別の日です。そうこうしているうちに昨日、ヨロヨロしながら歩いた最後の坂をバスは勢いよく登り、平和祈念堂入り口前へと到着しました。もう既に公式式典は終わってはいますが、続々と人々が平和の礎の方などに向かっていました。バスを降りた私が最初に向かったのは、平和祈念資料館の方でした。資料館も観るつもりではありますが、その前に入り口の手間左にある韓国人慰霊塔です。こんなに人でごったがえしている公園内にありながら、いや正確には公園内ではありません。公園に隣接している場所にありながらもひっそりしています。この時期、必ず来る場所の一つがここです。ここで思うことは、日本人としての加害の意識を忘れないためです。帝国主義・植民地政策等、学ばなくていけないことはたくさんあります。

● 伝える努力
韓国人慰霊塔を参った後、2000年に新しくできた平和祈念資料館へと向かいました。新しい平和祈念資料館の課題などについては、機会があるときに話しをさせてもらうとして、私の場合、資料館に来ると気にしてしまうことは、ちょうどその時に居合わせる若者たちの反応です。今、沖縄は、日本全国から修学旅行などで、多くの若者たちが、訪れています。旧資料館の時代は、限られたツアー時間の中では、時間が取られてしまうということで素通りをされてしまうことが多かったのですが、新しい資料館になってからは、私が見る限り訪れている若者の数は多くなっているような気がします。戦後57年、日本が戦争をしたことすら知らない世代が確実に増えてきています。資料館のような所を観ても多くの日本人は、被害の側面は記憶にとどめても、自分たちの加害の部分は見落としがちです。資料館での若者たちの反応は様々です。確かに、ダセーという感じで足早に通って行こうとする若者たちも存在はします。でも、10代の若者たちが持つ、本能的直観は、機能していると信じています。人として価値のあること、優先しなくてはいけないこと、そんなことを資料館から感じとってもらえればよいなと思います。そのためにも展示をする方の側がよく学び考えなくてはいけないことはあたり前ですが、大人の都合で構成されてはならない場所です。ごった返している祈念公園を後にして、本日最後の目的地である「魂魄の塔」へと向かいました。       つづく
 ● 沖縄とベトナム    ● 韓国人慰霊塔   ● 県立平和祈念資料館
1965年2月、アメリカ軍のベトナム北爆開始と同時に沖縄からは、海兵隊が投入された。以降、ベトナム戦争が本格化するに従い、沖縄の米軍各基地は、ベトナム戦争の後方支援基地と化す。1968年11月19日には、爆弾を満載しベトナムに飛び立とうとしたB52が、離陸に失敗をして核貯蔵庫の近くに墜落炎上爆発をした。1971年5月には、南部地区の水源地が米軍が行った化学実験によって汚染されるなど、ベトナム戦争との直接的な関係が浮き彫りにされていく。こうした状況の中、沖縄の人たちは、再び自分たちが戦争の加害者となってはいけないという思いから、ベトナム出撃の中止、基地縮小・撤退の要請を日米政府にすると同時に基地労働者などがストライキなどを実施し、ベトナム戦争への荷担を拒否した。 資料館の裏手、正確には公園敷地の外に円墳形の慰霊塔がある。1975年8月に建立委員会の手によって、韓国から運ばれた石などを使い建てられた。韓国・朝鮮から強制連行され、沖縄の地で戦争に巻き込まれた彼らの実数は、今持って明らかではない。碑文には、「1941年、太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された一万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」とある。 2000年4月1日、平和祈念公園の「平和の礎」の北側に新しく開館された。赤瓦の鉄筋コンクリート建ての新館は、旧館に比べ総面積は約9倍、展示面積は約5倍になった。「沖縄国際平和の杜」構想の一環として、「平和の礎」「資料館」「国際平和研究所」が三位一体となって、「平和の発信地」を構成する予定であった。戦争の原因と平和の条件について深く考え学ぶ場として位置づけられている。開館当時、展示物の改ざん問題などが浮上したが、当初の展示計画に戻され開館された。総合的な平和博物館を目指している。


  フィールドワーク沖縄2002                           bQ0
【第7日目−2】
● 魂魄
平和祈念公園から少し戻り、米須の部落を過ぎたひめゆりの塔の手前の路地を左手に曲がります。一帯は、さとうきび畑が広がる南部らしい風景です。ゆるやかな坂を下って行くとこんもりと木が茂った一画に出ます。慰霊の日である今日は、回りにひっきりなしに人々が集ってきます。広場の少し入った所に石を積んだ、丸い小山とその上に魂魄と書いた石の碑がのせてある慰霊塔があります。これが、「魂魄の塔」です。この一帯は、まさに最後のどん詰まりで、しかも平坦な土地ゆえ、これと言って身を隠すところもなく、米軍の砲火によって多くの住民犠牲者を出した場所です。戦後、米軍の命令で住む場所をここ米須原に移動させられた真和志村民は、食料確保の農作業をするためには、周囲に散乱する遺骨の収集から始めなくてはいけませんでした。地元の人たちと真和志村村民たちは、米軍にかけ合い許可得、この地に1946年2月27日、納骨所を完成し、「魂魄の塔」と命名しました。塔には、この地の周辺で戦争の犠牲となった3万5千柱の遺骨が納められていました。沖縄最大でかつ最初の慰霊塔であると言えると思います。多くの住民の犠牲者は、行方不明のまま亡くなっています。そうした方々の遺族にとっては、この塔が唯一の慰霊の地になっているわけで、公の慰霊祭が摩文仁に移ってしまった今でも、沖縄県民にとっての魂の故郷は、ここであると思います。

● 非戦の心
塔の回りには、いっぱいの花とたくさんの供物で埋め尽くされていました。少し離れた所では、何組みかのグループの方が車座になって話しをしています。塔に対して、一心に語りかけているオバー、当時の状況をお孫さんに語りかけているオジー、日本は戦後57年というけれど、本当の意味の戦後はいつくるのでしょう。ましてや今を次の戦前などにしてはいけない。戦争そのものが悪、正義の戦争も平和のための戦争も、戦争そのものが悪であることに何人の地球人が気がついているのでしょう。非戦の誓いである憲法第9条は、本当に価値のあるものです。私も塔に向かい、一礼をさせてもらいそっと人混みを離れました。塔の裏手をそのまま通り過ぎ、海へと出ました。今日も熱い日射しが容赦なく照りつけています。波乗りに興ずる若者たちが、サーフボードを小脇に抱えて小走りに私のわきをすり抜けて行きます。茂みを抜けるとそこには、白い砂、青い海、どこまでも広がる水平線の太平洋が広々と待ちかまえていました。時折顔を撫でる一吹きの風には、暑い午後なのにもかかわらず、涼しげな一吹きが混じります。海岸の岩影に腰を降ろし、海の音、風の音、波の音に耳を傾けます。足下の白い砂の中には、無数の珊瑚礁が混じり、キラキラと輝いています。気持ちのよい場所だと無意識に思っています。何気なく足でかいた砂の中に赤く錆びた鉄の破片が見えていました。思い出しました。沖縄は全ての場所が戦場であったということ。

● 2002年夏でした。
今回の旅を思い返していました。前半は読谷から首里までの米軍行軍の道筋、後半は、首里から摩文仁までの住民逃避行の道筋、もう何年も沖縄に来ていながら、そんな大事な道のりを歩いていなかったなんて、まったくの怠慢でした。アメリカ軍のしたたかな戦略、6月の暑く、雨が多いのこの時期に袋小路を目指して逃げまどった住民、何のために戦い、何のために逃げ、何のために命を失ったのか。そこにあるものは、消費と消耗と虚無、そして悔恨の念、 しかしながら、当時の日本人、他の国の人、現実には誰一人として、こうした人類の愚行を止めることができなかったわけです。21世紀の現在、こうした方法では、決して人類は豊かになれないことは明らかになっています。しかし、沖縄の米軍は無くなりもしませんし、日米安保に絡む国の政策にも変更はありません。何かをしなければ、自分自身の手で何かをしなければ、その一歩がとても大事に思えました。帰りの那覇に向かうバスで、摩文仁の丘からのお詣りの帰りと見受けられるオジーとオバーと孫たちのグループといっしょになりました。小学校の中学年ぐらいでしょうか、孫の娘さんは、オバーのことを気遣い、バスが揺れれば、危ないからちゃんと座ってなさいと言い、みんなのバス代を計算しては、オバーにいくらお金を用意しなくてはいけないよ。と一生懸命に気をきかせていました。乗り合わせた乗客たちもオバーが細かいお金がないと運転手さんに訴えたのを聞き、私がありますから両替しましょうね。と気軽に声をかけていました。両替をし戻ってきたオバーが孫娘さんに、今日はいい日だったね。帰りは、みんなで○○食堂でご飯食べて帰りましょうね。と言い、孫たちも、本当!?と喜び、元気にバスを降りていきました。琉球の心、本来、日本人、いや人類が皆持っていたはずの大切な心だと思うのです。いつまでも忘れてはいけない。誰かが次の世代に伝える努力をしていかなくてはいけない。私たちの活動もそんな試みの一端でありたいと願わずにはいられませんでした。それにしても久しぶりによく歩いたな〜。        おしまい
 ● 今回のコース(中部)    ● 今回のコース(南部)   ● 参考文献等
読谷村楚辺→トリイステーション→古堅→木綿原遺跡→サンハウストグチ→渡具知→嘉手納ロータリー→比謝川遊歩道→水釜→嘉手納基地→北谷砂辺→米軍上陸地モニュメント→浜川→美浜→キャンプ桑江→北谷公園→アラハビーチ→ハンビータウン→キャンプ瑞慶覧→宜野湾伊佐浜→大山→普天間飛行場→大山貝塚→真志喜→森川公園→宜野湾市博物館→大謝名→嘉数→嘉数高地→当山石畳→浦添城趾→前田→経塚→首里大名→平良→首里儀保→県立博物館→首里城 一中健児の塔→首里城→首里金城町石畳→繁多川→識名園→一日橋→南風原町本部→黄金森南風原陸軍病院壕跡→照屋→山川橋→宣次→神里→大里村稲嶺→目取真→玉城村愛地→船越→前川→玉泉洞→具志頭村新城→東風平町富盛→大獅子→八重瀬の塔→八重瀬嶽白梅学徒看護隊之壕→高良→与座岳→糸満市新垣→真壁萬華の塔→真壁ちなー→ひめゆりの塔裏→米須→大度→摩文仁→平和祈念公園→平和の礎→韓国人慰霊塔→県立平和祈念資料館→魂魄の塔→米須海岸 観光コースでない沖縄(高文研)、歩く・みる・考える沖縄(沖縄時事出版)、沖縄戦(大城将保著・高文研)、沖縄戦と民衆(林博史著・大月書店)、沖縄戦のはなし(安仁屋政昭著・沖縄文化社)、虐殺の島(石原昌家著・晩聲社)、琉球・沖縄史(沖縄歴史教育研究会)、沖縄の米軍(梅林宏道著・高文研)、ベトナム戦争の記録(大月書店)、琉球の伝統工芸(河出書房新社)、再考沖縄経済(牧野浩隆著・沖縄タイムズ社)など。